勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』刊行記念★当日のアンケート全公開

このエントリーをはてなブックマークに追加 Share on Tumblr

まもなく、勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』を刊行いたします。
本書は、古典否定派・肯定派の本物の研究者があつまって論戦に挑んだ、2019年1月のシンポジウム「古典は本当に必要なのか」の完全再現+仕掛け人による総括と言う構成でお届けするものですが、シンポジウムで参加者のみなさんにお書きいただいたご意見・Yotubeの動画から募ったご意見も掲載いたします。

それらは、シンポジウムを開催する際、あらかじめ「報告書等で利用させていただく場合がある」と断っていたものですが、これからの議論のために、アンケート部分をすべて公開することにいたしました(本来であれば、明星大学のサイトが望ましいのですが、暫定的にこちらで先行公開することにいたします)。

本書とあわせて、ぜひ参考にしてみてください。

●2019.9月刊行
文学通信
勝又基編『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信)
ISBN978-4-909658-16-6 C0095
A5判・並製・220頁
定価:本体1,800円(税別)

本書はこれから各所で真剣な議論が一つでも多くされていくことを期待し刊行するものです。

*****

■YouTube動画
古典は本当に必要なのか(明星大学日本文化学科シンポジウム20190114)

①全体の議論を聞いて、最終的にどうお考えになりましたか?

問いと答えを集計したもの(PDF)

②ご意見・ご感想を自由にお書きください

▶教育と研究は事情が違うので、分けた方がよいと思った。日本文化についてよく知ることはグローバル人材にとっても重要なことで、理数系の研究やプレゼンだけをやれば競争力がつくわけではない。「何が幸せか」「どう生きるか」の点から選択を見直してほしい。現状から出発するのではなく、日本という背景を持つ人間として備えるべき知を体系化できるといい。

▶いい企画でした。素晴らしい。

▶オイラーの公式から毎回三角関数を計算していた(覚えていなかった)が、毎回かなり時間がとられた。/幸せをお金で測るなら、ロボットにやらせればよいのでは。/「愛国心を創る」という表現がとてもいやです。/人は無駄な部分で「楽しみ」や「幸せ」を感じると思うので、その無駄の一例になっても古典は学ぶべきだと思います。「役に立つ」とは何なのか。ない内容とは何か。誰が決められるのか。

▶全体的にアンケートが雑/入試の古典・漢文と、教育内容・目的にギャップがあるのではないか。GAFAのような新産業を作れる人材に何が必要か分かっていない状態で選択と集中は危険。広く選択科目を増やし、その一つとして古典を位置づけるべきではないか。全員が起業家・勝ち組になれない、多くの何者にもなれない人々にジョークの一つも言える古典は必要。ただし、日本人が日本の古い「言語」(思考を広げるにあたって古典はコスパはいいと思う)で思考することの意義が明確でないと、美術・芸術の一つとして、または現代文での教育で、という意見に抗うことができない。ちなみにテキスト文化全盛のネット時代、ブルーワーカーであっても正しく伝え、理解する言語能力は必須だと思います。

▶肯定派と否定派の論客の方々が議論する時間が少なかったように感じました。質問者には質問のルールを徹底させるべきだと思いました。貴重なお時間いただきありがとうございました。

▶設問に対するメッセージ
①(ウ)→「現状」の定義さまざま。/①(オ)→哲学と文学は違う。

▶猿倉氏の論に従えば、国の富を生み出すMACHINEになるためには、体育も音楽も、微分積分も必要ではないか。とはいえとても面白かったです。

▶古典の良いところをできるだけ多くの人に伝えたいと思います。

▶意義ある議論ができているように感じた。開催の英断と努力を讃えたい。良いパネリストが揃ったと感じた。期待よりも実り多いものになったと思う。

▶古典必要派であるが、不要・必要論者の話を拝聴して考え方が大きく変容した。必要論者の論理だけでなく不要論者の論理を踏まえた古典教育のあり方を模索していく必要性を感じた。今後必修の座から古典が陥落し、出会いを多くの人に確保されなくなった時、古典が消えてしまうのではないかという危機感を持った。

▶反対論者の先生のあまりの説得力の強さとクレバーさに圧倒されました。ぜひこの延長戦を聴きたいです。

▶書道(芸術科目です)の教員が身近にいます。「芸術は現状、実技を伴っている。そのため、文学を芸術に入れることは、実技について考えなければならないのでは」と言っていました。福田先生もおっしゃっていましたが、芸術の先生の話、ひいてはすべての科目の先生方の討議が必要なのではないかと感じました。貴重な体験をありがとうございました。

▶文法のための文法はやめように賛同いたします。

▶否定派、肯定派双方の考えを聞くことができ、古典教育に関してモヤモヤとしていたことが少し整理できてよかった。

▶これから教員として国語教育に携わっていく身として、古典の必要・不必要論においてどのような論点が存在するのか学ばせていただいた。私自身は基本的に肯定派だが。否定派に対して感情的にならずにいかにして論理的に主張できるか、という点については難しさを感じた。理系(と言ってしまうが)の古典肯定派がいるとすれば、それはどのような論理によるものなのだろうか......?

▶実用主義的観点から古典教育を不要とするなら、現代文においても文学作品などを排除して新聞などを読ませるべきという話になるし、さらに言えば日本語ではなく英語を公用語にした方がいいという議論に行き着くのではないか。「二流の英米人」を作る教育にいかほどの価値があるか疑問である。肯定派が重視するプレゼン能力にしてもパワポ以前と以後ではだいぶ異なるはずだ。いまの科学技術を前提にしたプレゼン技術に果たして普遍性があるのか、きちんと検討すべきだ。猿倉氏の言う「ビジネスのための現代人の基礎教養」というような授業を公教育で行っている国などあるのか。そういう即役に立つ豆知識はすぐ陳腐化する。それはマナー教室のようなところでやるべきなのではないか。

▶多角的な視点から学ぶことが非常に多かったです。ありがとうございました。また機会がありましたらよろしくお願いいたします。いや、シリーズ化を希望します。

▶設問に対するメッセージ
①(オ)→哲学の手法を古典教育に取り入れるべき。/(ク)→どのような人を想定している?/(サ)→使い方による。
古典教育肯定派です。しかし、現状の高等学校国語科の古典教育において、歴史的史料としての批判的検討のない古典教育には、猿倉氏がおっしゃったような弊害があると考えます。否定派の方々のご意見にももっともな点は多々ありますが、前提としている学知の考え方が、近代ヨーロッパ的枠組みを強化するものであり、ある種の「帝国主義」であると考えます。近代ヨーロッパの「ゲームのルール」の中でしか、学知の中で生きていけないとしたら、われわれに残された道は有能な「植民地エリート」になるしかないのでしょうか?倫理学的に疑問です。
個人的には古典(読解)教育を一部の人に限定してすそ野を狭くすると、何かあったときに、そのスキルが失われていくリスクがあると思います。歴史的にもそうした事例はあると思います。

▶古典を選択にすべき→高校において古典を学ばない人が出てくる......それは危険なのでは?中学3年では足りない(各学年1単元分しかやらないのはちょっと......)。私の中での古典は......古典というツールを通して先人の知恵を学ぶ、日本人とは歴史の中でこう変わって来たよ〜という過程・歴史を学ぶと同時に、言葉を学ぶ機会を得られるチャンス。現代語訳は翻訳をした人の意思が反映されてしまっているのでプレーンな元の文も知っておくべきなのでは?日本人としてのアイデンティティーを養うためにも必要なツールだと思います。せめて1年間は古典を勉強するチャンスをあげてほしいです......。本日はありがとうございました。/議論について......言葉のドッチボールみたいになってしまっている。否定派・肯定派互いに歩み寄り、折衷案もほしかった気がします......。

▶設問に対するメッセージ
①(エ)→二択では考えられない。/(サ)→教えようによる。
「古典(近代文学含め)」の見せ方の重要性を改めて認識しました。緊急の「宿題」とさせていただきたいと思います。

▶原文でないといけない理由が、訳すとつまらなくなるからですね。納得しました。/100人以上の人が集まり、驚きました。/時代変化が速いほど目的的な教育は古びるというのは、そうだなと思った。が、古典で議論の前段階を、というのはこじつけでは?←本気でそう思ってくださってることが分かりました。/古典は「半分他者との出会い」なんですね!目からウロコでした。この4人で作る教科書、楽しみです。こんな、けんかを売る、けんかを買うような討論、とても面白かったです。古典の魅力少しわかったかも♡

▶自分は学校教育において、古文・漢文を学ぶことが必要だと思う。しかし、古典文学を専攻する人は限られる。だから、選択式にすることは興味・関心の高い人が増えて良いと思う。古典に対して苦手意識を持ちながら学びがちになっている現状は、学ぶ意図を教育において理解させるべきだと思う。

▶古典・歌における日本語のリズムを学ぶのは必修教育で重要だと思う。現代文の日本語からはそうした詞性・音学性を身につけるのは難しいので。国語以外の科目を含めた教育再編が最終的に必要なのかもしれないと思わされた。

▶日常的に考えている古典教育・国語教育について、面白い視座を得ることができました。理系・文系の境目をなくす、理系にとっての人文科学という言葉は、とても共感することができます。また、渡部先生の古典に対する愛情は、同じく国語(古典)教育を生業とする自分にとって、真に目指したいものだと感じました。今日のこの会が1日限りのものでなく、これからの教育に生かされるよう、自ら精進してゆきたいと存じます。

▶日本の前近代に存在し、いまでも残っている差別や理不尽について学ぶのに日本の古典はとても良い教材になり得るはずで、差別の事実の提示を超えて、作中人物の受け止めも含めて、生徒の感受性に訴える教育の必要性を感じています。/「情緒的文章」「哲学的」「論理的文章?(国語リテラシー??)」を分別できると理系の先生方が考えておられることに驚きました。/欧米型の議論の型を前提に設計された「国語リテラシー」を生徒に教えるのは、思考の型も欧米に支配されることになるのではないかと危機感を深めています。

▶古典のコンテンツとしての市場価値はアニメ・漫画・ゲームなどの分野でかなりあると思います(ex.源氏物語、百人一首のコミック「うた恋い。」、陰陽師安倍晴明関連)。アニメ・漫画などの発現の元になっているので海外へそれらをどんどん発信している。日本の売りとなっていることを考えると無益ではないのではないでしょうか?落語や歌舞伎など世界で人気の芸能と古文が現代語で教えられると意味不明になるのでは?

▶進学校に勤務していると、このような疑問を真剣に考えずに済んできたので、大変刺激的でした。勝又さん、おつかれさま。

▶古典教育を通じて「人間関係」を教育することが重要。

▶インターネットの、特にSNSにおいてやり取りされているゴミみたいな議論が最小化されており、非常に良かった。ブログも書きますね。

▶古文漢文の学習は単語・文法を学ぶことで言語そのものを客観化できる。英単語・英文法等の英語学習と併せて高校で学ぶのは大切。言語の客観化は科学的態度の第一歩。国際人というのは均一な知識を持つ人たちの集まりでなない。個別の背景(お国の歴史や文化や制度)を持った人たちの集団と考えるべきで、日本人の場合は古典の知識は必須だと思われる。英国人がシェイクスピアやベーコンについて語れるのと同じ。高校生の時間不足に関していえば、リテラシーのスキルアップについては古典の学習時間をいじる必要はなく、大学の教養課程でやればよい。高校に圧力をかけすぎ。プレゼンや議論の錬成は大学でもやるべき。

▶刺激的な時間でした。いろいろ考えさせられました。アンケートで多く「分からない」にマークしましたが、「あるべき」と思いつつ、強く「必要」と言えない気持ちが。ベタな言い方でいやなんだけど「古典を教える」じゃなくて「古典で教える」と思うと、ギロンする力も古典でできるように。"われわれ"が「好き」と思ってる古典の、必要性(?)について、帰り、考えたい。

▶設問に対するメッセージ
①(サ)については、教科書掲載の時点で(現在は)かなりスクリーニングしている。毒がなさすぎるとさえ感じる。

▶現在重要になっていることを真剣に考える機会をくださった先生方、パネリストの皆さまに感謝申し上げます。最終的に、「古典を高校で、必修で、原文で」学ぶことに対して、肯定派からあまりコメントがなかったのではないかと思いました。このことに関する説明責任は古典教育に携わる者全体の問題だと思います(私も真剣に考えていきたいと思います)。

▶古文に主に用いられる「かな」は男も女もアクセスできるジェンダーフリーな文学でした。和歌が身分的にニュートラルであるという指摘と併せて、思いあわせておく必要があろうと思います。今日の議論には漢文をどうするか、という議論が欠けていました。否定派の方々の意見は、漢文についてよく当てはまる気すらいたしました。後日、「漢文は必要か」と題して、中国文学・東洋哲学の専門家の意見も聞いてみたく思いました。

▶質疑で出させていただいた古典を「他者」と捉えることについて会場の皆さまが誤解をしているように感じた。古典を「他者」と捉えるということは、その内容を読み取った結果として出てくるものではなく(中国や韓国など......いろいろなものが混ざったものとしての「他者」)、古典そのものを「他者」と見なし、材料とする中で、その作業そのものが人間形成に働くのではないかということです。一筆添えさせていただきます。とても有意義な時間でした。次回もぜひ。

▶設問に対するメッセージ
①(イ)→選択でもよい。/(ウ)→全く不必要とは思わないが簡略化させたい。/(オ)→哲学とは違う。/(カ)→試験のために不具合な授業をせざるを得ない。/(サ)→教え方次第。歴史的にどういう時代であったか学ぶようにすればよい。
長い時間でしたが、実のある有意義なシンポジウムでした。いままでこういう議論がされてこなかったことが問題だったと思います。よい機会を与えてくださいました。まだ方向は見えて来ませんが、これからも多様な方々を交えて深めていきたいと考えます。古典を高校生にどう読ませたいか、熱心に悩み迷いながらも希望を持つ人たちが多くいることもうれしいことでした。現代語訳を多く使っていくことには賛成ですが、訳しきれない「ゆれ」を話し合ったりするところにこそ、文学の意味があるように思っています。時には生徒同士の違う読みがあり、それらを認め合うことが授業の素晴らしさかと思っています。

▶非常に有意義な会でした。人文系の関係者は人文系教育のメリットを広く外部に発していく必要があると痛感しました。それと、行列が高校数学からなくなったのと、古文・漢文の単位が減ったのは、その根っこが同じなのではないかと感じました。目に見える効果だけを評価すると、間接的に有用なものがわりを食ってしまうというのでしょうか。古文・漢文を守ることは、数学を守ることにもつながっているのではと考え始めました。

▶設問に対するメッセージ
①(サ)→考え方による。
前提として、高校教育の位置づけを明確にしておいた方が、議論のすれ違いが少なかったのではないでしょうか。国語リテラシーの方が優先度が高いというのは同意しますが、それは中学までに行うべきではないでしょうか。高校は大学で専門を学ぶ前提となる基礎的知識を学ぶ場だと考えます。古典(私は平安文学に限定されない、文語文全体を指すと考えます)は、人文学に限らず、19世紀以前の資料に触れる人全員に必要です。それを大学に入ってから各学部や学科で個別に教えるのは非効率的では。また、高校でどういう人材を育てるかという議論も必要かと思います。エリート養成と職業教育と。戦前のように分けた方が良いのかもしれません。

▶学校現場でもよく問われる「古典は必要か?」という問いについて、理系側からのするどい意見を聞くことができてとても面白かった。学習指導要領の改訂により、高校の国語教育は大きな変化が訪れるが、一教員として、常に今日の問いを忘れずにいようと思う。

▶本日は貴重な機会を賜り、ありがとうございました。シンポジウム後もTwitterで引きつづき発信することが実りある議論につながると思うので、今後も発信を続けたいと思っております。

▶私は完全な理系のキャリアを歩んできており、古文・漢文を学ぶ意義を見いだせないでいたが、渡部先生・福田先生のお話を伺って、古典がどのように人生を豊かにするかのイメージが持てたのは有意義であった。ただ、大学入試のために古典を必ず学ばなければならない現状には否定的で、もっと選択の余地を持たせた方が良いと思う。

▶後半のセッションの最初で肯定派の先生方が、否定派の主張への反論をしなかったが非常に残念でした。「否定派の人たちにはどうせ分からない」といった意図を感じてしまいました。このような姿勢そのものが、否定派の先生方の「議論やプレゼンの教育が必要」という主張への正当性を高めていると感じます。私には肯定派の先生方が否定派の先生方の主張に論理的に反論した印象がなかったので、自らの学問の正当性を論理的に主張できないのであれば、このような現状も仕方ないのでは、と思います。

▶設問に対するメッセージ
①(ウ)→必要だがもっと短く。/(カ)→問題の内容による。/(サ)→教員次第
本日はありがとうございました。現在、中高に勤めていますが、生徒は、なぜ古典を学ぶのかという疑問を持ちます。それに対する解答は難しく、本日のシンポジウムでも直接的な答えはなかったと思います。しかし、それ自体を問い続ける(古典の意味や人はなぜ古典を学ぼうとするのか)勇気を持つことができました。ありがとうございました(問う姿勢を持つのを見せることが大切)。渡部先生の東大での古典教育の実践の授業をぜひ拝聴いたしたく。

▶色々刺激になり、考えさせられました。本日は高校の国語教育に焦点があたっていましたが、機会があれば大学の人文学(研究・教育)に焦点を当てた議論の機会を作っていただければありがたいです。ありがとうございました。

▶古典を学ぶというより、教える内容として、実用性をいくつか持たなければ否定派の意見を超えることができないように感じました。そのため「幸せ」や「教養」というような曖昧なものに準拠しているようでは難しいでしょう。質問をさせていただいた時には、「法則」では「例外」に勝てないと言われましたが、「枠」を知らなければ「変化」に対応できません。そのためにも、古文は言語教育の基盤になるべきだと思います。

▶シンポジウム参加前の私の考えは、学校教育において古文・漢文は時間の無駄、つまりより優先度の高い教育がほかにある、と考えていたが、シンポジウムで古典肯定派2名のお話を聞いてみると、より積極的に「古文・漢文を教えるべきでない」と考えるようになりました。人は非論理的な話を繰り返し聞かされると、思考力はおとろえます。特に、それを試験として課すことは人の成長のさまたげになっていると確信しました。

▶大変面白いシンポジウムで主催者の方々にお礼申し上げます。ただ、登壇者の方が、少し勉強不足のように思いました。大学教育と高校教育の混同がみられたり、高校までの教育の現状を賛否双方で、思い込みで語られているのが残念でした。国語教育および中等教育・大学教育の専門家を1人配置していただければ、と思います。基本的には面白かったです。

▶設問に対するメッセージ
①(オ)→「賛成」古文・漢文に中身がないという意図ではないが、哲学の方がより良いと思うという程度。
何でもコスパと言うことに疑問を感じるところもあるが、何のために古典を学ぶ必要があったり古文書を保存する必要があったりということを、広く理解が得られるように示す必要があると感じた。学校の現場も業務量が増え、負担も大きくなっていると思われるので、古典をどうしても教えねばならないのであれば、他の教科とリンクするやり方で教えられないものかと思った。(福田先生の研究事例はとても素晴らしいが、そのレベルほどでなくても、日本史の史料の解説など。)国語をリテラシーと文学に分けた方が良いというのは、確かに思った。(社会人に至って、とてもそのように思う)現代語訳のことや日本語は変化しているという課題が出されていたが、時間がかかると読み下し文が「古文」となってしまうという問題が発生すると感じ、頭が痛いと思った。

▶全体を通して面白いシンポジウムでした。古典教育に関わるものとして、自分の答えとその理由をはっきりさせなくてはならないなと改めて思います。

▶魅力的な企画ありがとうございました。いろいろ考える時間となりました。

▶討論と人格力激論と古典読破力、高校生(17歳)にとって理解するのは難しい。「古典が必要か」は教育問題(課題)と切り離して理解を進めるべきではないか。

▶古典「を」学ぶのではなく、古典「から」「で」学ぶという考えが必要ではないでしょうか。テクストは、表現と内容が揃っていてこそ、意味をなすもので、すべてが原文ではないにしても、すべてを訳文で学ぶのは、古典の持つ内容の良さを欠くことになると思います。変動する社会で求められる能力を教育から身につける必要が唱えられるからこそ、不動で変わらずにある「古典」から、言語のみならず文化についても学び、いまを知ることがこれからの古典教育の意義となり得るのではないでしょうか。

▶現在の中等教育に関する政策において、"古典"は必ずしも聖域とされずに削減されている中で、否定派の主張はすでに形になっているものもあるように感じた。そのため、否定派の「ビジネスに資する」という観点から、現行の理数教育の"無駄"もあるように思われたので、その点の"自己批判"もあり得るのかは知りたかった。なお「ポリコレ」の問題は、教育のコンテンツが"不十分"であるがために生まれるような気もしているので、学校教育の全般を考えて体系化する必要があると思いました。なので、"古典"にその原因を求めるのは逆恨みのような気もしました。

▶肯定派として参加させていただきました。渡部先生のお話を拝聴することができて良かったです。

▶大変貴重な意見を伺う時間をありがとうございました。可能ならば、大学入試センター試験から古文・漢文をなくし、教養としての古典学習になれば良いと思います。芸術としての学びができれば、より幸福感も得られるでしょう。さらに、中学までの義務教育の中で、熱意ある教師により、古典のみならず、すべての教育がしっかりとされることを、心から望んでいます。

▶甚だ面白し。同じ主題での次回あらんことを望む。

▶設問に対するメッセージ
①(イ〜オ)→対象の生徒によって変わる。/(サ)→教え方にもよる。
多くの着眼点を得、考えを深めることができました。

▶「働く」ことが国のための有益であり、「子を産み、育てる」「繁殖」という役目を持った女性はないがしろにされているのか?と思ってしまいました。富める人が富んでいくのが最も大切なのだと感じました。

▶これまで考えたこともなかった多くの考えに触れることができ、視野が広がった。肯定派否定派どちらの考えも興味深く、考え方が変わった部分もある。もっとたくさんの話を聞きたいと思える有意義な時間だった。

▶私は元々古典好きなため、必要(肯定)派であったが、今日の討論を聞いていると考えがかなりゆれました。私も前田先生のおっしゃたように、古典を芸術の科目に入れて選択をするという案には賛成でした。また、古典そのものの否定でなく、どう扱っていくか、ということに目を向けていたことに安心しました。

▶日本がサービス・コンテンツ産業で振興していく上で、作り手を幅広く求めるならば、やはり素養が必須だと思います(観光・アニメ・文学など全般)。

▶どうもありがとうございました。日本文化・社会の中で生活する以上、日本語・文章から切り離されることはない。その日本語・文章と〈時間〉という観点とともに相対化できるのは古典の意義かと思います。なお、〈伝統的な言語文化〉という保守的な発想で温存されているねじれも重要な論点かと存じます。有益な機会を与えていただき感謝いたします。

▶否定派の意見にも一理あるとは思った。しかし、やはり、文化の基盤としての古典の重要性についてはきちんと考えるべきであるし、高校までの教育が、将来が見えない生徒の可能性を広げることを思えば、触れる機会を奪ってはならないと思う。

▶肯定派・否定派という切り口ながら、肯定派の側からも、古典で学ぶ教育現場における現実面にたった意見が出たり、感情論や二項対立に収斂しない討論が聞けてよかったです。私自身は肯定派寄りですが、この主張の根本に古典文学を特権化するような思想がないか内省する機会にもなりました。否定派の意見をも受け入れ冷静に意見をギロンし合う会場の雰囲気が好印象でした。

▶否定派の発言の立ち位置は、「経済性ビジネスの立場」であったが、肯定側はそれを受け入れていたのだろうか。あるいは、それは考えるまでもなく共有していいのだろうか。個人としては、古典が専門の立場なので、肯定したいのだが、多数の人に共感してもらうような古典の教育の必要性(意義ではない)は、説得力を持つものはまだ考えつかない。※文理の区別のないシンプルな入試制度になれば、文理分けしなくてもいいのですが......。

▶話を聞きにくる前より、「分からない」(判断に迷う)ことが増えた。これは議論が大変面白かったということである。ただ、一つ私がはっきり思うのは「ポリコレ」の問題から古典を排除するのは違うと思う。立場や意見はさまざまで本当にコレクトなことはあるのか、と思うからです。

▶設問に対するメッセージ
①(ウ)→ただ入試からはなくしたい。/(カ)→文法問題もなくなっていい。/(サ)→「有害」=この定義は社会のあり方によって変わるので。
否定派の議論をFacebookで拝見した時から、古典がある程度必要というところは合意できていて、ポイントは優先順位なのだと思っていました。今日参加して感じたのは、さらにポイントを絞ると古典文法の教育の是非になるということでした。進学校でも定時制(高専)でも国語を教えてきて、古典文法の扱いにいつも悩んでいました。最後の渡部先生の文法のために文法を教えないで、この一言にとりあえず同意しました。

▶学生という立場で今回のシンポジウムに参加させていただき、以前の私であれば当然のように古文・漢文は必修として扱うべきであると考えていたと思いますが、そうとは言い切ることは難しいと強く感じました。「必修」としてやるというところに着目すると、なかなかなんとも言えないのではないでしょうか。今回は否定派と肯定派とでベクトルが異なる部分もあったので、そこの差が埋まれば変わると思います。

▶自分は文学部の1年生で高校の国語教員を志望する者として参加させていただきました。まだまだ専門的な授業も受けておらず、力の至らない学生ですが、今回多く思うことがありました。最後の八神先生の「教育」を見直すべき時であると言うご指摘について、今後、すべての分野に携わる方々の議論がなされるべきであると言うことを強く思いました。今後そのような機会があることを強く願っています。

▶高校で古典を学ぶことについて、有用性の面では否定派の意見に賛成。肯定派はあまり反論できていない。個人的に、高校教育は役に立つかどうかではないと思う。古典だったり行列だったり、その存在を認知し、触れ、経験するためにあると思う。興味があればその先に進むし、なくても"あったなあ"程度にはなる。そういう分野・世界があるということだけ分かれば良いのでは?

▶ポリコレ的観点で教えるべきでない、という観点には全く賛成できない。かつてポリコレ的に反する文化があったことを知らないと、同じことを繰り返すことになる。また、内容の良し悪しは恣意的選択(悪い意味での)が働きやすくなることで、"誰が""どのように""どの基準"を明確化していいということは成功した試しがありませんが、やるしかないですね。

▶やはり教育者個人の力量に左右される部分が大きいと感じました。古典や漢文を使って論理や人間形成、コミュニケーション能力を学ばせることも、上手な先生ならできると思います。

▶学びの中の古典と対極としてのグローバル化と国際協調共生共存に重きを置く日本社会、人間の原点として母語としての古典から人間性、生き方は学ぶ原点である。そして科学技術と人間のあり方の不合理を感じております。皆さんの考え方の多様性が私にとって再考する機会となり、その意欲を増しました。

▶否定派お2人に伺いたいです。「良い」古典の内容なら教えるべきと言っていましたが、その判断基準は何でしょうか。国際的競争力を中心に話しておられましたが、QOL(Quality of Life)には目を向ける必要はないのでしょうか。論が拡散した気もしますが、内容としてはとても面白かったです。

▶設問に対するメッセージ
①(ア)→自分にない感じ方を知ることができた。/(イ〜ウ)→生徒の進路によって変えられないものか。/(オ)→両方あってほしい。/(サ)→伝え方の問題と思います。
とても興味の誘われるシンポジウムでして、有意義な議論をお聞かせくださり、ありがとうございました。社会の流れとして可視化できるものを求める傾向がありますが、国語(古典)も流れに乗る必要があるように思いました。日本語教育(第二言語教育)でも学習者のニーズやレディネス(Readiness)が重要な部分です。国語教育も同様に考えていくべきと思います。

▶とても面白い展開でした。

▶「漢文」らしい観点があると、より良かった。

▶運営について:第二部のマイク数が足りない。アンケートは最初に2枚配る方がよい。あらかじめ、質問や意見を集めておいて、当日整理して議論するとよい。センターテストはどのような人間をつくり出したいか、を反映している。文科省の人間を入れてディスカッションすれば(多分公式意見は出ないと思うが)よい。

▶"文法への恨み"が古典嫌い、古典否定における大きな要因だと思っていましたが、それ以外にも問題とされる点があるということが分かり有意義でした。高校生に対し、古典を教える際に、どうアプローチするか(役に立つか、必要か、という点を含めて)を考える契機になりました。ありがとうございました。

付・YouTubeのコメント欄に寄せられた意見

▶教育に直接的な結果といいますか、目に見える形の結果を求めるのは、教育基本法にうたわれている「人格の完成」とは少し離れてしまうのでは?と思いました。高校から芸術科目として選択するという案には賛成です。ただし、そうした場合、学校に古典の教員を置かないところが出てくることが考えられます。諸事情でどうしてもこの高校に進学するしかないけれど進学先の高校に古典の選択肢がない、となった時、生徒の学ぶ機会を奪う結果になるのではないでしょうか。この点についてどのように考えていらっしゃるのか、否定派の方々にお聞きしたいです。

▶否定派が言葉を尽くして不要という古典は「受験古典」だと思いました。一方で肯定派の先生方の意見としては古典全般そのものについての擁護的な意見であり、シンポジウムではお互いの「古典」の意味がかみ合っていないように思われました。私自身、古典文学を研究する者として否定派の生産性重視に基づいて古典を切り捨てるべきだという意見はあり得ないのですが、客観的に今回の討論を見ていて肯定派の先生方の反論は否定派の答えになっておらず、個々の具体例だけを述べているように感じました。今回のシンポジウムでは、古典肯定派がこれまで納得させられるような至極明確な回答をしてこなかったために、このような「馬鹿げた」否定派のような意見を持つ方を生み出してしまったとのではないかという問題点が見えてきたように思います。

▶議論自体の感想として、理系側は無理解で例示が適切でなく攻撃的な印象、文系側は答えているようで答えが見えず古典の必要性が伝わりませんでした。この機会は素晴らしいですが、結果はあまり満足していません。
中等教育で古典を学ぶ意義は、
・原典にあたる姿勢の涵養(literature review)
・外国語のように言語を体系的に学ぶ経験(systematic understanding)
・自国文化への理解を通じた視点の育成(broaden a perspective through culture)
という3つと自分の中では整理されました。
 現行のほかの教科では代用できず、また大学という多様性のある場所での学びに重要な要素です。つまり、今後さらに大学進学率が高くなるなら、古典を学ぶ重要性も上がると感じています。ただし議論を拝聴していて、個人的には「東洋の古典」とともに「西洋の古典」も学ぶべきではないかと感じました。論語や兵法もそうですが、ラテン語、ギリシャ語、ベオウルフ、カンタベリー物語、シェイクスピアなども。外国人に対して自国の歴史や文化について話せる、その外国人の文化まで精通するとなれば、「世界市民」として通用する人物となります。

▶古文漢文否定派の完勝と判定する。擁護派は否定派の意見をきちんと理解して反論することすらできていないと思う。否定派は現代語訳でよいのではないかとか、高校生では必修ではなく選択にすべきとか、他により優先度の高いことがあると言っているのに、擁護派は有効な反論ができていない。議論の能力も明らかに否定派の方が高い。

▶大変興味深く刺激的なディスカッションでした。そしてエポックメイキングな企画でもありました。ご登壇なさった皆さま、企画された方々に、心より御礼を申し上げます。
 私自身(現段階で、立場は賛成派とします。古語辞典の編集の仕事をしております)の感想を以下に述べます。当日、反対派の意見のうち、賛成派によってもフロアによっても解消されなかった点に、「古典は芸術科目とすればよいのではないか」という観点があったと思います。
 その反対派のご意見の背景には、古典=主観的=情緒的=非論理的だから必須のスキルにつながらないし芸術の一種である、という認識が見え隠れしており、それは世間一般の、古典に対する見方の一つでもあると思います。また、賛成派が、「幸福」という、極めて哲学的かつ主観的な論理で攻め返そうとしたのは、一つの戦略であったとは思います。
 が、問いたいのは、本当に古典はそこまで非論理的で、情緒的な学問として、これまでなされてきたのか、ということです。古典教育には、それなりに長い伝統の中で培われてきた、文学研究の「作法」があり、古典教育も基本的にはそれが土台になっております。客観的な検証手法によって、主観や内省に頼らずに、論拠によって冷静に文の意味を導き出していく過程が求められます。当時の社会背景、出てくる言葉一つ一つの語義、和歌などであればコロケーション(collocation)を、その当該の文脈だけではなく外堀からも、「調べる」という営為が重視されます。個人の自由な感想を述べ合うのが古典読解、というイメージが先行していますが、本来、そんな情緒的なものではなく、読みを導き出す論拠や、その材料を見つけ出す調査が、大前提であるはずです(音楽・美術も同様でしょうが、それはひとまずここでは横に置かせていただきます)。
 客観的な証拠をもって、(自分とは立場も意見も異なるかもしれない、他者の書いた)文章の解釈を固めていく。そのような人文「科学」としての手続き・手立てを学ぶための、一つのモデルたりえてきたのが、古典であると思います。その「調査に基づく論証方法を学ぶ」という視点から、古典教育の存在意義をもう少し強く主張しても良いのではと思いました。もちろん、高校の教育現場では、文学研究の手法や奥義にまでは言及されません。が、しかしその作法や論証的思考を体験し、教室で他者と共有できるに堪える客観的な読解姿勢を学ぶ場として、古典の読解教育があり、そのために(現代語訳ではなく)ナマの原文があるという考えを、お伝えしたいです。一方でまた、古典教育側の方も、(発信が重視される時代ではありますが)発信の型ばかりではなく情報受信の型を学ぶという、国語教育が持つ基本的な意義を、再認識すべきではないかと思いました。

▶古典自体の存在が必要だが、一人一人にとっては必ず学ぶ必要があるのでもない。存在自体の必要と個人が学ぶ必要を混同するの杞人の憂いと言って良い。学びたい人は学べば良い、古典を学びたいくない人も自分が好きな科目を選べば良い。

▶賛成派は反対派の意見にきちんと答えていない。論点をそらして誤魔化していると思う。賛成派の議論を聞いて、古文・漢文を勉強してもまっとうな議論はできるようにならないことが分かった。

▶全体として、何をしたいのかがよく分からないシンポジウムだった。高校の教育課程で古典が必要かどうかを論じるならば、現在高校で教鞭を執っている方からの現状報告は最低でも必要だったはず。なぜそれがなかったのか。古典教育の実務者を無視していると言われても仕方ないと思う。
 また、否定派は「古典教育の優先度は低い」という論調だったのに対し、肯定派は「古典の素晴らしさ」という論調になっていて、議論が全くかみ合っていなかった。議論が平行線で良いと思っているのは主催者だけで、参加者は「古典は必要か」と題したシンポジウムである以上、必要/不必要のいずれか(もしくは妥協点)を提示されることを望んでいる。「お互いに言いたいことを言ってすっきり」といった自己満足はやめてほしい。
 少なくとも、否定派の論調で論じるなら「高校の教育課程に古典は本当に必要か」、肯定派の福田氏のように古典の可能性・意義を論じるなら「いま求められる古典とは何か」と題して行うべきシンポジウムだったと思う。
 結局、このシンポジウムは何をしたかったのか。