岩田秀行・小田切マリ編『波多野華涯書簡集 門人濱口梧洞との往復書簡』(文学通信)

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岩田秀行・小田切マリ編『波多野華涯書簡集 門人濱口梧洞との往復書簡』(文学通信)
ISBN978-4-909658-11-1
C0095
B5判・並製・158頁(フルカラー)
私家版

★本書は私家版のため一般書店には流通いたしません。

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昭和十年代における一人の南画家とその門人たちとのありのままの交流のすがたが、遺された書簡から生き生きと蘇る。南画家波多野華涯(花邨・花笑・花涯)が門人の実業家濱口梧洞(本名儀兵衛、一八七四〜一九六二)等と交わした往復書簡五十一通をカラーで掲載し、それぞれに釈文、解説を付し刊行する。

詳しい内容はこのエントリーの一番最後に、本書の「始めに」を掲載いたしましたので、そちらをご覧下さい。

本書に収載した書簡五十一通は、現在すべて「華涯文庫」の所蔵。「華涯文庫」は、波多野華涯の遺品(作品・下絵・印章・自筆原稿・模写・書簡・蔵書・蔵幅・印刷物・写真他)の呼称であり、現在華涯の曽孫小田切マリの所蔵・管理下にあるものです。

【編者】

岩田秀行(いわたひでゆき)

1949年、香川県生まれ。跡見学園女子大学教授。
「花蹊書簡」(『跡見花蹊日記』別巻、跡見学園、2007年3月)、『花蹊の書簡』〈跡見学園女子大学花蹊記念資料館,収蔵品目録 新シリーズⅡ・Ⅲ・Ⅳ、 2015〜2017年〉。

小田切マリ(おだぎりまり)

1947年、岡山市生まれ。京都大学教育学部卒業。
著書『華涯─波多野華涯の世界─』(2005年)、『華涯─波多野華涯岡山の日々─』(2009年)。

【目次】

始めに
凡 例

1 梧洞宛華涯書簡(昭和九年八月七日付)
2 梧洞宛華涯書簡(昭和十年四月二十六日付)
3 華涯宛梧洞書簡(昭和十年五月五日付)
4 華涯宛梧洞書簡(昭和十年五月六日付)
5 華涯宛梧洞書簡(昭和十年五月十二日付)
6 華涯宛梧洞書簡(昭和十年五月十九日付)
7 梧洞宛華涯書簡(昭和十年五月二十三日付)
8 梧洞宛華涯書簡(昭和十年七月二十日付)
9 華涯宛梧洞書簡(昭和十年八月一日付)
10 梧洞宛華涯書簡(昭和十年八月四日付)
11 梧洞宛華涯書簡(昭和十一年一月三十一日付)
12 梧洞宛華涯書簡(昭和十一年三月四日付)
13 梧洞宛華涯書簡(昭和十一年七月三十一日付)
14 梧洞宛華涯書簡(昭和十一年十二月十二日付)
15 華涯宛梧洞書簡(昭和十一年十二月二十日付)
16 梧洞宛華涯書簡(昭和十二年三月三日付)
17 梧洞宛華涯書簡(昭和十二年五月二十七日付)
18 華涯宛梧洞書簡(昭和十二年五月三十一日付)
19 梧洞宛華涯書簡(昭和十二年八月十六日付)
20 華涯宛梧洞書簡(昭和十二年九月十三日付)
21 梧洞宛華涯書簡(昭和十二年九月十八日付)
22 華涯宛東久世秀雄書簡(昭和十二年十一月二十三日付)
23 華涯宛濱野茂書簡(昭和十二年十二月十五日付)
24 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年三月九日付)
25 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年三月二十三日付)
26 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年三月二十九日付)
27 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年四月五日付)
28 濱口恭子宛華涯書簡(昭和十三年四月十六日付)
29 梧洞宛濱野茂書簡(昭和十三年四月十六日付)
30 濱口恭子宛華涯書簡(昭和十三年五月八日付)
31 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年五月二十二日付)
32 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年六月二十六日付)
33 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年七月八日付)
34 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年七月十九日付)
35 華涯宛本間千代吉書簡(昭和十三年八月一日付)
36 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年八月十九日付)
37 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年八月二十二日付)
38 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年八月二十七日付)
39 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年十月十九日付)
40 梧洞宛華涯書簡(昭和十三年十二月四日付)
41 梧洞宛華涯書簡(昭和十四年六月二十九日付)
42 梧洞・恭子宛華涯書簡(昭和十五年四月十八日付)
43 濱口恭子宛華涯書簡(昭和十五年十月十一日付)
44 華涯宛東久世小ろく書簡(昭和十五年十月十三日付)
45 華涯宛梧洞書簡(昭和十五年十月二十五日付)
46 華涯宛濱口恭子書簡(昭和十五年十月二十五日付)
47 華涯宛本間千代吉書簡(昭和十七年三月二十九日付)
48 華涯宛本間千代吉書簡(昭和十八年六月八日付)
49 華涯宛本間千代吉書簡(昭和十八年七月十六日付)
50 波多野信彦宛東久世秀雄書簡(昭和十九年七月二十三日付)
51 波多野信彦宛梧洞書簡(昭和十九年八月二十九日付)

終わりに

参考文献
付 記

【本書冒頭「始めに」より全文掲載】

始めに


 本書は、南画家波多野華涯(花邨・花笑・花涯)が門人の実業家濱口梧洞(本名儀兵衛、一八七四〜一九六二)等と交わした往復書簡を収め、その内容に関して説明を施したものである。書簡の数は五十一通、うち三通は恭子夫人と、八通は梧洞の仲間達と、一通は梧洞の妹小六との間で交わされたものとなっている。日付は昭和九年(一九三四)八月七日付、華涯七十一歳から始まり、昭和十九年(一九四四)八月二十九日付の弔慰状で終わる。

 波多野華涯(本名元、一八六三〜一九四四)は、幕末文久三年五月十一日、父善四郎、母さきの長女として大坂(東区唐物町四丁目十番邸)に出生。父は、水戸藩を脱藩した後大坂に移り、当時は銅の商いをしていた。華涯の学齢期は明治新政府の方針が未だ暗中模索の状態で、華涯も私塾で学んだ後、明治五年に頒布された「学制」に基づく進級学校で、英語を含む基礎教育を受けた。しかし、華涯はこれに満足せず、父の理解もあって、明治八年、十二歳で単身上京、私学跡見学校の開校を待って入学し、以後五年間、跡見花蹊に師事して、書画を始め、和歌・漢籍等の日本の伝統的な教育を受けた。在校中の華涯は、特に画に対して天賦の才を発揮し、十三歳の時には、明治天皇の御前で大幅「海棠孔雀図」(絹本墨画、125.5×55.2cm)を揮毫し、「後生畏る可し」との御言葉を賜ったほどであった。

 明治十三年に同校を卒業したが南画への研鑽意欲は強く、大阪に帰郷して森琴石に山水画の教えを請い、さらに再び上京して瀧和亭のもとで、花卉着色法の修得に励み、併せて南画に必須の漢詩・漢籍の教養をも身につけ、やがて南画家として世に知られる存在となっていった。以来、亡くなる終戦の直前まで、生涯、華涯は日本の南画壇の第一線で活躍した。

 こうしてみると、華涯は、明治維新後、ごく早い時期に新制度の学校教育を受け、最初期の女学校で学び、その後の人生も自らの道を追究し続けて、やがて画の道で見事に自立を果たした、将に近代女性の先駆的存在と言えるのではないだろうか。

 一方、この往復書簡の相手である濱口梧洞は、明治七年(一八七四)和歌山県廣村(現広川町)に九代目濱口儀兵衛の次男として出生、後に十代目儀兵衛を継いだ。津波から村を救った「稲むらの火」で知られる濱口梧陵(一八二〇〜一八八五)は、梧洞の祖父に当たる。

 濱口家は代々廣村に住し、同地方の豪族として知られる家だったが、江戸時代元禄年中に下総国銚子港に店を出して醤油醸造業を始めた。これがヤマサ醤油の始まりである。以後濱口家は醤油醸造を生業とし、当主は代々儀兵衛を名乗るようになった。梧洞はその十代目にあたる。
 さて、梧洞は、華涯との出会いについて、晩年、掛け軸「藤図」の箱に次のように書き付けている。

波多野華涯女史は跡見女学校第一回の卒業生なり 廿才の頃自家所蔵の女孝経画巻を摸写せん為めに廣村へ来り十日程逗留せり 其時自分は十才位なりしが筆算を学ぶ 女史は其後瀧和亭画伯の門にも学び画道の為めに諸方を遍歴し晩年岡山に居住し同地方には門人も多く南画家として令名あり 昭和三十四年十月梧洞誌

跡見女学校を卒業した華涯は明治十六年春、画の題材を求めて父親と共に南紀を巡る旅に出た(『瀞峡遊記』明治十六年)。この旅の途中に立ち寄ったのが廣村の濱口家であった。華涯は同家所蔵の中国古画巻「女孝経画巻」を模写する傍ら、十才の梧洞少年に筆算の方法と画の描き方を教えたのである。

 この出会いから約半世紀の歳月を経て二人は再び東京で巡り会った。本書に収めた往復書簡は、この再会の時から始まる。
この頃、華涯は既に古稀を過ぎ、南画家として円熟期を迎え、活動の場を岡山からさらに東京へと広げつつあった。それは当時、芸術を取り巻く環境が変容し、作品鑑賞の場が、書画会形式から展覧会形式へと移行しつつあったためである。書画会は江戸時代そのままの文人仲間の閉鎖的形式だったが、展覧会は誰もが自由に参加・鑑賞が出来て、気に入りの作品を定価で購入することも可能なものであった。こうした時代の変化に即応して華涯も日本美術協会(明治二十年設立、東京上野公園桜ヶ岡)に所属し、昭和三年より入選・入賞を繰り返し、昭和五年には協議員にも推挙されていた。さらに昭和十一年設立の日本文人画協会には審査員として迎えられ、上京する機会も増えていた。二人の再会は、こうした時期のことである。

 他方、梧洞は、東京六本木に居を持ち、年齢も既に還暦に届いていた。家業ヤマサ醤油の経営強化・拡大に奔走する傍ら、貴族院議員として国政にも携わり、多忙な日々を送りながらも余暇を見つけては、少年の時、華涯に手解きを受けた画を描くことにも並々ならぬ情熱を傾けていた。

 そして、昭和十年五月、上野の森で開催中の第九十八回日本美術協会展を観覧に訪れた梧洞は、少年時に教えを受けた華涯の画を目のあたりにして強く心を動かされた。華涯に師事することを申し出たばかりか、貴族院研究会の仲間たちにも声を掛け、これに応じた総勢六名の貴顕紳士たちが華涯から南画の指導を受けることになったのである。

 彼らとの交流のあった昭和十年代は日本では軍部が擡頭して日中関係が悪化、やがて日華事変へと進み、以後日本はつねに戦時の困難な時代の中にあった。しかし、華涯は戦時下の物不足に苦しみながらも、筆を執ることへの情熱を失うことはなく、梧洞への書簡中、「戦時に有之候へ共、自分は自分の芸術之為、一生懸命日々筆とり居り候」(昭和十三年六月二十六日付、書簡32)と、その心中を書き送っている。

 昭和十七年になると、華涯も身体の衰えを見せるようになり、視力の減退とともに歩行も危うくなり、上京しての東京社中の稽古も間遠くなっていった。そのようななか、門人の一人本間千代吉から、華涯に宛てて次のような手紙が届いた。

扨て今回は甚だ突然の御願にて恐縮に存じ候へ共、実は先生にも追々に御齢を重ねらるゝに従ひ、自然御上京之機会も少なく、以前の如く、時々御指導に預かることも出来難く候に付、当方より画帖を御送り致し、御手本の御揮毫を御願致し度念願に有之候へども、御聞き届け被下候哉(昭和十七年三月二十九日付、書簡47)

手本による稽古を懇願する内容である。これに応じた華涯は、早速手本を揮毫し、以後手本によって東京社中の稽古は続けられた。しかし、戦争は次第に激しさを増し、画事に遊ぶ余裕もなくなってきた。そうしたなか、昭和十九年七月十八日、華涯は亡くなり、その死を悼む梧洞からの悔やみ状でこの書簡集は終わる。

 翌年八月十五日、日本は終戦を迎えた。それから七十年の歳月を経、ここに初めて公開することとなった五十一通の書簡は、昭和十年代における一人の南画家とその門人たちとのありのままの交流のすがたを、私たちに生き生きと語りかけてくれている。

編者