日本女子大学学術交流企画「平安京出土「難波津」の歌の木簡と『古今和歌集』仮名序」報告○茂野智大(筑波大学大学院生・日本学術振興会特別研究員DC)

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しばらく実験的に、各学会大会等で開催されたシンポジウムのレポートを掲載していきます。
ここに掲載されたテキストは、2018年秋から刊行する雑誌『文学通信』に再掲載いたします。

※改行等はweb用に適宜改変しています。ご了承下さい。

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日本女子大学学術交流企画「平安京出土「難波津」の歌の木簡と『古今和歌集』仮名序」報告

茂野智大
(筑波大学大学院生・日本学術振興会特別研究員DC)


日にち 二〇一八年二月二四日(土)
場所 日本女子大学 目白キャンパス

講演・ディスカッション
【講師】
犬飼 隆 (日本語学者・木簡学会会員)
「儀式の歌・贈歌から文芸ヘ」
高田祐彦(青山学院大学教授)
「古今集の成立-かな文学をいかに捉えるか-」
【司会】
田中大士 (日本女子大学)

イベント公式サイト
http://www.jwu.ac.jp/unv/faculty_department/humanities/japanese/news/2017/20180224.html


 二月二十四日(土)、日本女子大学において学術交流企画「平安京出土「難波津」の歌の木簡と『古今和歌集』仮名序」が開催された。講師は犬飼隆氏(日本語学者・木簡学会会員)、高田祐彦氏(青山学院大学教授)。両氏の講演の後、田中大士氏(日本女子大学教授)を司会として全体討議が行われた。

 「難波津の歌」は、『古今和歌集』仮名序において「安積山のことば」とともに「歌の父母のやうにてぞ、手習ふ人のはじめにもしける」とされる歌である。この歌は『萬葉集』には採られていないものの、土器や木簡といった出土資料に散見することが知られる。今回の企画で取り上げられた木簡もその一つで、平安京左京四条一坊二町跡の井戸遺構(九世紀後半)から出土したことが二〇一五年に発表された★注[1]。当該木簡は「難波津の歌」の全文が仮名で書かれ、次行には散文が書かれている。犬飼隆氏は『日本歴史』八二四号(二〇一七年一月)において、この木簡が『古今和歌集』の「仮名序の成立事情を想像させる貴重な手がかりではないか」との見解を示された。本企画はその提言を承けたものである。

 講演ではまず犬飼氏が件の論文の趣旨を説かれ、次いで「儀式の歌・贈歌から文芸へ」の題で、儀式の音楽の歌から文学作品の和歌へ、という見取り図を示された。基本的にはこれまでの著作で氏が提唱されてきた見解に基づく話題であったが、様々な出土資料をスライドで紹介しつつ、本企画の趣旨に即して歌(や和歌)を書く意味の変遷に焦点を当てた内容であった。紹介された中には昨年話題になったケカチ遺跡出土和歌刻書土器といった資料も含まれ、その用途や性格に関する最新の議論★注[2]も踏まえた内容からは、今この企画を行うことの意義が明確に認識された。問題の「難波津の歌」については、それが九世紀までは「文学作品でなく純粋な儀式用の歌」であったとする氏の見解を改めて強調された上で、やがて「歌」が「和歌」に、すなわち文学作品として学問・文芸活動の対象となるに及び、それ以前に作られた「歌」も批評対象となったこと、批評的散文を伴う当該木簡もそこに位置付けられることを述べられた。なお先述の論文では、左行中の「はべる」が平安時代の文献では会話の引用か手紙文に多く見られることを根拠として、「この文章は「難波津歌」についての批評の言葉を述べた記録か手紙、またはその草稿」という推測も示されている。

 次に、高田氏が「古今集の成立--かな文学をいかに捉えるか--」の題で、仮名序における「難波津の歌」の扱われ方を確認した後、『古今和歌集』の成立に至る九世紀の文学状況を詳説された。唐風謳歌時代(いわゆる国風暗黒時代)を経て九世紀後半から和歌に対する再認識が行われ、その地位が向上したところで『古今和歌集』(仮名序)として結実する、という大きな流れの中に当該木簡を位置付けようとするその内容は、この木簡に対する犬飼氏の見解を補強するものであったように思われる。特に左行の散文については、犬飼氏同様「難波津の歌についての何らかの批評」と捉えた上で、具体的に「歌語り」の場における批評を一つの可能性として提示された。益田勝実の提唱したいわゆる「歌語り」は、平安文学における歌物語を捉える視点として設定された術語であるが、歌が制作事情などとともに語り伝えられるというそのあり方は、左行中の「まらと」を「まらんど(客人)」と読んでこれが和邇(仮名序が「難波津の歌」の作者に比定する)を指すと捉える犬飼氏の説とも関連して興味深く拝聴した。
 
 全体討議では、様々な分野の研究者が来場していたこともあり、多角的な意見交換がなされた。中でも本企画のテーマに直接する話題として特筆すべきは、犬飼氏が最初の質疑で明かされた、当該木簡の性格に関する氏の最新の見解である。講演では先述の論文に基づきこの木簡に書かれた内容を批評活動の記録と捉えることまでを話されたが、全体討議ではより踏み込んで用途についての仮説を提示された。犬飼氏は著作の中で、神雄寺跡(馬場南遺跡)出土「あきはぎ木簡」★注[3]の裏面上部にJ字形の削り込みがあることに着目し、複数枚重ねた木簡から一つを取り出しやすくするインデックスのような機能があったのではないか、という考えを示されている。そしてそうした木簡は歌集編纂資料であったのではないかと推測し、当該「難波津の歌」木簡もそれと同様、言わば歌(とその批評)のデータベースの一部だったのではないか、というのである。

 当該木簡が『古今和歌集』仮名序の成立事情を思わせるという犬飼氏の見解、ならびに『古今和歌集』に結実する九世紀後半の状況を説かれた高田氏の講演を拝聴した直後、そうしたあり様の具体を示すものとして当該木簡を捉えるこの説は、非常に魅力的に思われ、一種の興奮さえ覚えた。しかし同時に、そうしたデータベースが本当に存在したならば、同様の「歌+批評」の木簡が多数見つかってよいのではないか、また、なぜ出土したのが他ならぬ「難波津の歌」の木簡なのか(他の多くの「難波津の歌」木簡の存在に鑑みて、データベースの一部と見るより「難波津の歌」ならではの事情が当該木簡をあらしめたと見るべきではないのか)等の疑問が頭をよぎった。当然会場からもそうした質問は出されたが、犬飼氏によれば同様の木簡が更に出土するかはわからない、どちらかと言えば悲観している、との回答であった。その理由として、この頃は木簡に字を書くということがあまり行われなくなってくる時期であり、これは奇跡的に残ったものかもしれないから、という。他ならぬ「難波津の歌」だけが残った理由については、「難波津の歌」だから、という端的な回答であった(氏の著作や今回の講演で述べられたこの歌の性格を念頭におく発言と稿者は理解した)。短い質疑でのことであるから性急な判断は控えたいが、これらの回答と歌のデータベースという見解とがいかなる論理で両立できるのか、稿者は疑問を抱いた。

 ただ、そこには「データベース」という語によって生じた誤解もあったのかもしれない。おそらく「データベース」と聞いた時、それなりの規模をもった歌の集積(例えばそれを元に編纂される歌集の歌数に匹敵するくらいの)を想像した方が多かったのではなかろうか。少なくとも稿者はそうであった。しかし犬飼氏の想定されたデータベースなるものは、もっと小規模の、「難波津の歌」に代表される一部の特別な歌(とその批評)のみを集めたものを指していたのかもしれない。仮にそうであるならば、質疑における回答とデータベースという捉え方とが、あるいは両立可能であるとも思われる。データベースという用語選択の問題も含め、改めて詳細な見解が発表されるのを待ちたい。

 全体討議の終盤、会場から「「難波津の歌」の木簡ならば習書と見るべきではないか。右行(歌部分)は習書で、左行(散文部分)はそれとは別の手紙の下書きなどではないか」という意見が出された。これは右行と左行とで文字の書き様に違いがあるというそれまでに出た話題(特に、右行は一字一字しっかり「書写」するように書かれている、という指摘)も踏まえた発言であっただろう。それに対し犬飼氏は、歌が書かれていたら習書、というのは旧い考え方であり、わざわざ歌を書くからには相応の理由があるという前提に立つことで今日までの研究は発展してきた、という主旨のことを述べられた。栄原永遠男氏の提唱されたいわゆる「歌木簡」という観点に端を発し、その是非や範囲(歌が書かれていれば「歌木簡」、というわけではない)の検討を通して、この方面の研究が近年めざましく発展してきたのは事実だろう。それでも「歌木簡」論は、今なお「「歌木簡」の是非自体が議論途上である」(犬飼氏先掲論文)とされる。歌が書かれた木簡にも様々な性格の違いがあると指摘されているものの、稿者を含む周辺分野の研究者には、そうした最新の成果を必ずしも十全に受け止めきれていない部分があるように思われる。そこには木簡研究者と文献を中心に扱う研究者との間にある、書記媒体に対する捉え方の違いも影響しているのかも知れない。しかしむしろ、そうした理解や捉え方の違いがあればこそ、本企画は多数の周辺分野の研究者に最新の成果や考え方を提示し得た場として、大きな意義があったと稿者は考える。本企画から得た知見を踏まえ、書かれた媒体の違いおよびそれらの関係性、ひいては書くこと自体の意味について、改めて考え直してみたいと感じた。
 
 以上、大いに刺激を受けた周辺分野の研究者の一人として、本企画の報告をさせていただいた。稿者の不勉強や理解不足により、講師・発言者の方の意図を充分に汲めていないまとめ方をしてしまった部分もあることと思う。ご寛恕を請う次第である。

★注
[1]『京都市埋蔵文化財研究所発掘調査報告 2014-10 平安京左京四条一坊二町跡』(公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究、二〇一五年)。カラー写真および実測図あり。PDFが以下URLより閲覧可能。
http://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2014-10.pdf
[2]昨年九月に行われたシンポジウムの配布資料『古代史しんぽじうむ「和歌刻書土器の発見」ケカチ遺跡と於曽郷 概要版』のPDFが以下URLより閲覧可能。カラー写真および実測図あり。
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/21203
[3]『京都府遺跡調査報告集 第138集』(財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター、二〇一〇年)にモノクロ写真および実測図あり。PDFが以下URLより閲覧可能。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/G138/138web.pdf