空井伸一『「国文学」の批判的考察 江戸のテキストから古典を考え直す』(文学通信)

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3月下旬の刊行予定です。

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空井伸一『「国文学」の批判的考察 江戸のテキストから古典を考え直す』(文学通信)
ISBN978-4-909658-27-2 C0095
A5判・上製・カバー装・468頁
定価:本体11,500円(税別)

優れた文学テキストは、作者の意図や同時代の共通理解をはみ出してしまうことで、ある種の普遍性に到達するのではないか――。
今日私たちが「古典」とするものの多くは、書籍の公刊が可能とした知識の共有に因るところが大きいが、本書は、日本近世期における文学受容の在り方として特徴的な、そういった公刊された作品を対象とし、特定の時代背景や限定的な人間関係だけに還元されることのない読みを通じて、「古典」が「開かれたテキスト」であることの意義について考える。
具体的に上田秋成、井原西鶴、平賀源内という三人の作者について、その作品を取り上げ、作品論のかたちで個別に考察する。またそれを踏まえ、一国や一時代の文化や伝統を賛美し、それを規範と見なすような発想に対して批判的考察を加え、自文化中心主義や尚古主義、そして「国文学」なる学の問題についての検討も行う。
江戸のテキストから古典を考え直し、「国文学」を批判的に考察する書。

【私は、伝統や古典文化をそれ自体否定的に見るつもりはない。しかし、それを美化することによって現在を低く見積もるような発想は断じて受け容れることはできない。「昔はよかった」、「過去に学べ」といった、一見罪もなく素朴に見える、それでいて何かしら一定の知恵をたたえたかのように思わせる物言いは、しかし過去を権威として振りかざし、現在をよりよく生きようとする人々を抑圧し毀損する暴力性を確実に秘めている。過去のある時期が、疑問や批判も抱かずに生きることのできる全一のものであった、それ故に幸福であった、体制に対する批判などというのは後代のさかしらであるなどという物言いは、そのまま全体主義国家を支える論法そのものであると私は考える。もちろん世の中には全体主義の何が悪いのかという考えもあるだろうし、過去にも現在にもそれに基づいて成り立った国家や集団は存在する。しかし私自身はとてもそのようなところで生きることはできないと確信するので、自らの生存権をかけて、そのような発想は峻拒する。】......「序 江戸のテキストを読むということ」より

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【著者紹介】

空井伸一(うつい・しんいち)

1965年 群馬県生まれ
1988年 東北大学文学部国文学専攻卒業
1993年 東北大学大学院文学研究科博士後期課程(国文学専攻)満期退学
2018年 博士(文学)東北大学
現在 愛知大学文学部教授

【「はじめに」を全文掲載】

はじめに

 本書は、日本近世期における文学受容の在り方として特徴的な「刊行された作品」を対象とし、その読みを通じて、特定の時代背景や限定的な人間関係だけに還元されない、「開かれたテキスト」であることの意義について考察するものである。
 木版印刷という方法によって、それまでにない大量の書籍や版画が比較的安価に流通するようになったことが近世という時代の文化を画する決定的な特徴である。同一の版を以て公刊されることによって、一人の手によって書かれたものは多くの見知らぬ人々の手に委ねられ、知識は開かれ、共有され、吟味され、それを踏まえて更に新たなものが書き起こされることにもなる。それにより、例えば江戸期における古典の集大成ということも可能となった。今日私たちが「古典」と称するものの多く、そしてそれらがなぜそのように見なされるのかという理由付けは、書籍の公刊が可能とした知識の共有に因るところが大きい。江戸の板本の多くの表記は「くずし字」によってなされ、今日の書籍とは趣を異にするが、書かれたものが不特定多数の人々の手に渡り、一人一人がそれに向かい合って主体的に読むという行為は、例えば近代小説の受容の在り方と基本的に変わるところはない。それは電子メディアなど媒体を変えるとしても、これからも変わることなく行われることだろう。本書は、日本古典文学史の上では初期読本、浮世草子、戯作などといった用語を以て称される作品を取り上げるが、如上の観点からそれらを「近世小説」の名称を以て括ろうと思う。

 研究の対象として、上田秋成、井原西鶴、平賀源内という三人の作者につき、具体的にその作品を取り上げ、作品論のかたちで個別に考察する。この三人はかつて、江戸における近代の萌芽、先駆者などと見なされ、それを以て評価されるところがあった。一時期は封建制に対する抵抗者、あるいは犠牲者などと祭り上げられるようなこともあった。しかし近年、当時の資料に基づく立論が進められる中で、彼ら自身に反時代的な意識など認めようもなく、江戸の封建制を自明のこととして受け止め、その中で手遊びとしての文事、いわゆる「戯作」に遊んだことが指摘されるようになる。その結果、彼らに近代を見るのは、そのように見る側の願望の投影でしかないと批判されるようにもなった。
 この批判自体はしかるべきことであり、作品がものされた当代の思潮、価値観を踏まえることは前提とされなければならない。しかし、その作品をどう読むかということになれば話は別であろう。完璧に「閉じたテキスト」でもなければ、そこに作者の意図しなかった、作者にも統御できなかった何ものかが生じるということはあり得る。そしておよそ完璧ということは世にあり得ないわけで、そこにこそ時代に制約されない何ものかが生まれ、読み取られるということはあるのだ。文学テキストの価値は同時代の評価、例えば雅俗の規範こそすべてということであるはずがない。優れた文学テキストというものは、作者の意図や同時代の共通理解をはみ出してしまうことで、ある種の普遍性に到達するものだと私は考えている。公刊による「開かれたテキスト」はそれを可能とさせるツールのひとつであり、封建下の、文字通りの前近代社会である江戸期においても、近代的な読みに堪える、そして更に普遍をも垣間見せるテキストはあり得たと私は考えている。

 三人の作品のうち、特に上田秋成の『雨月物語』はこのことを顕著にうかがわせるものと思われる。それは生みの親に名乗りを上げてもらえなかった、うち捨てられたかのような若書きの作であり、最晩年に手書きのかたちでなされた『春雨物語』に対して、俗なる体裁を取るものだが、にもかかわらず、むしろそれ故に、時代の制約を受けない達成を見せている。本研究はそのように江戸の「開かれたテキスト」が普遍へと通じる可能性について論究する。また、それを踏まえ、一国や一時代の文化や伝統を賛美し、それを規範と見なすような発想に対して批判的考察を加え、自文化中心主義や尚古主義、そして「国文学」なる学の問題についての検討にも及ぶ。

【目次】

はじめに

凡例

序 江戸のテキストを読むということ
一 秋成研究の現在─ふたつの物語について
二 「和本リテラシー」について
三 うち捨てられた書としての『雨月物語』─公刊されるということの意味
四 本書の構成

第一部 秋成を読む

第1章 「白峯」に見る「和」─「隔生即忘」を強いる西行─
一 問い詰める西行─「白峯」を他と分かつもの
二 西行の「論」について─syncretism(結束主義)が覆い隠すもの
三 「隔生即忘」を強いる西行─「前生」を忘却することは「仏教的」に望ましいことか
四 おわりに─「和」の反仏教性

第2章 連帯する「孤独」─「菊花の約」の「友」─

一 はじめに─「偏奇」を描くということ
二 「独行」の系譜
三 飯倉論の検討─「近世的な読み」を超えて
四 「復讐」について
五 「友」であるということ─「孤独」な二人の連帯
六 的外れの復讐について
七 「刺客」たちの物語─「己を知る者」のために死ぬということ

第3章 「浅茅が宿」の「烈婦」─「玉」として砕ける宮木─
一 宮木・手児女・遊女─女の純情について
二 待つ女の境涯─美化される死
三 「いにしへ」という虚構─『万葉集』巻第九に見る古代女性二様
四 「玉」と砕ける宮木─「玉砕」について
五 「浅茅が宿」の「烈婦」

第4章 「夢応の鯉魚」の「遊戯」─「鮮」を厭う興義─
一 はじめに
二 言葉の遠近法─「延長」の画僧という騙し絵
三 「鮮」を忌避する興義─自己愛としてのフードファディズム
四 究極の絵画としての「夢応の鯉魚」

第5章 「芥子」の考察─「葵」から「蛇性の婬」「仏法僧」に及ぶ─
一 はじめに
二 「葵」─内面の毒を思い知らせる「芥子」
三 「蛇性の婬」─屈辱の香りとしての「芥子」
四 「仏法僧」の「秘密」─内外を分かつ「芥子」

第6章 日本古典文学に見る死体描写の系譜─「青頭巾」「吉備津の釜」を中心として─
一 はじめに─「死体」の両義性について
二 The Body─「死体」によって成長する物語
三 「青頭巾」─「死体」を喰らうということ
四 「吉備津の釜」─正太郎の行方
五 おわりに

第7章 「青頭巾」の悟り─如来蔵としての「本源の心」─
一 はじめに─対立か、分身か
二 「悟り」について─不可説の中心として
三 反論理の物語としての「青頭巾」─「本源の心」の探求
四 「悟り」の相承─合わせ鏡の二人
五 おわりに─倫理的には正しくない物語としての『雨月』

第8章 「黄金」の語る貨幣─「貧福論」という「閑談」─
一 はじめに
二 「貧福論」の岡左内
三 黄金と貨幣の臨界
四 『雨月物語』の貨幣─銀で作られた金貨
五 「黄金」の語る貨幣─「閑談」としての『雨月物語』

第9章 『諸道聴耳世間狙』試論─一之巻一回・三之巻一回を中心に─
一 はじめに
二 「気質物」の方法─其磧・南嶺と「和訳太郎」
三 一之巻一回「要害は間にあはぬ町人の城郭」
四 三之巻一回「器量は見るに煩悩の雨舎り」
五 おわりに

第二部 西鶴を読む

第1章 決定不可能性としての「不思義」─『西鶴諸国はなし』巻一の二「見せぬところは女大工」考─
一 はじめに─見出し語について
二 研究史概観─作の評価規範について
三 横のものが縦にも見えること
四 夢の文法としての無時間性、主客の可変性
五 おわりに─「一条小反橋」という磁場

第2章 境界上の独身者─『西鶴諸国はなし』巻四の七「鯉のちらし紋」考─
一 はじめに─独身男と鯉との恋の実態について
二 「内助」の兄弟たち─魚と恋する物語について
三 鎮/沈/静められるべき水系─「内助が淵」の実態について
四 まとめ
 
第3章 策彦の涙─『西鶴諸国はなし』巻三の六「八畳敷の蓮の葉」考─
一 はじめに─策彦の「涙」
二 朝貢・勘合・遣明使禅僧─日元貿易との比較から見る日明貿易
三 策彦の入明体験─黒衣の交渉人
四 謙虚な策彦
五 蓮の葉の上でまどろむ「名僧」─再び策彦の「涙」について

第4章 左の腕を断つ話─『武家義理物語』巻六の二「表向きは夫婦の中垣」考─

第三部 源内を読む

第1章 宙吊りの地獄─『根南志具佐』の世界─
一 はじめに─源内論の前提
二 『根南志具佐』の世界─〈死〉をめぐる/描く物語として
三 国益という〈空所〉をめぐって「旋回する男」の物語

第2章 都市神話としての可能性─『根南志具佐』の「根」についての考察─
一 はじめに
二 「水無月の中の五日」─水の記憶について
三 「水虎」、そして分裂する供儀について─災厄と福徳の両義性
四 河童と役者について─「賤」の起源について
五 おわりに

第3章 『風流志道軒伝』を読む─「空」と渡り合う貨幣の物語として─
一 はじめに─若き日の龍樹と志道軒
二 あり得ぬ「起源」の穿鑿─申し子と貨幣の「縁起」
三 ふたつに割れる「卵」─意味・価値の誕生
四 欲望の連鎖─世界の多様性について
五 「語る」主体としての再生─羽扇の焼失
六 中道を行くということ─志道軒、そして源内
 
第4章 『風流志道軒伝』の異空間─江戸への憧憬─
一 「大人国」「小人嶋」「長脚国」「穿胸国」─通過される異空間
二 「参籠」─宝暦一三年の「申し子」の背景
三 「僧院」─破られるべき自閉の空間
四 「康照帝後宮」─遍歴の終焉
五 宝暦一三年の「江戸」─憧憬の異空間

第5章 平賀源内と秋田鉱山開発
一 はじめに─源内について
二 秋田鉱山開発と源内、田沼意次
三 田沼意次の時代
四 幕藩の駆け引き
五 源内の「国益」
六 戯作に描かれた世界観
七 まとめ

第四部 「国文学」の批判的考察 

第1章 批判の学としての「国文学」
一 「批判」について
二 「文学部」について
三 「国文学」の病巣と、それを切除する試みについて
四 おわりに

第2章 「無常」と「美」の日本的連関についての批判的考察
─『方丈記』と『徒然草』、『雨月物語』「浅茅が宿」を通じて─
一 はじめに─問題の所在
二 「無常」について─内省か傍観か
三 『方丈記』と『徒然草』─沈黙と饒舌
四 おわりに─『雨月物語』「浅茅が宿」に見る男の「涙」

おわりに
初出一覧
索引(書名・人名)