横光利一文学会第17回大会「特集:文化資源(コンテンツ)としての文学」印象記○荒木優太

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しばらく実験的に、各学会大会等で開催されたシンポジウムのレポートを掲載していきます。
ここに掲載されたテキストは、2018年秋から刊行する雑誌『文学通信』に再掲載いたします。

※改行等はweb用に適宜改変しています。ご了承下さい。

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横光利一文学会第17回大会「特集:文化資源(コンテンツ)としての文学」印象記

荒木優太


日にち 二〇一八年三月十七日(土)
場所 日本近代文学館ホール

《パネリスト》
○日比嘉高
文化資源となる文学、ならない文学―〝過疎の村〟で何ができるか
○芳賀祥子
「文豪」を愛するということ―女性読者による文豪キャラクターの受容
○大杉重男
『文豪とアルケミスト』に「転生」した「文豪」たち―「徳田秋声」と「横光利一」の比較から
《ディスカッサント》
山岸郁子
《司会》
中沢弥

学会公式サイト
http://yokomitsu.jpn.org
大会趣意文
https://bungaku-report.com/blog/2018/01/172018-3-17-1230.html


 純文学の危機が慢性的につづいている。この状況にあって、書籍や雑誌といった既存メディアを入口とした、いわば正統的な受容とは別に、漫画・アニメ・ゲームといったサブカルチャーから日本近代文学に接近する裏口が無視できないほど大きなものになってきている。今回の横光文学会はその前提を踏まえ、横光という固有名に必ずしも囚われず、様々なメディアに翻訳・変形された文学作品や文豪イメージを一挙に文化資源(コンテンツ)として捉えてみることで、アクチュアルな諸相究明に挑んだ。会場には非専門家らしき女性の来場者が多く見受けられた。

 日比嘉高の発表は、その形式面、即ち、ある対象を文化的資源として発見し、集団単位でなされる生産・配給・消費といった活動を支えていくエコシステムへの考察に費やされた。コンテンツは技術やインフラの違いを超えて流通するが、このこと自体は小説の映画化など決して新しい現象ではない。今日特徴的なのは、ソーシャルメディアの出現で、既存システム外への情報拡散が生じると同時に、ブロック的機能で見たい情報しか見せない島宇宙化が進行する、いわば流通と分断が両立してしまう不思議な情報環境の成立にある。興味深いのは、その流通過程において発揮される「キャラ化」現象を、受容者が受け取りやすい(飲みこみやすい)ように変換する「効率化」という観点で捉えたところ。分かりやすさや商品性、ときに性的欲望に最適化されたキャラ化の操作は、一方で本来ならば届かない層にコンテンツを配達するが、他方、その効率化によって何か重大なものが失われているのではないか。大会の通底音をなす問いかけだと思った。

 芳賀祥子と大杉重男は、これに対して内容面、即ち、現在形で進行する具体的コンテンツの分析に豊かな例示の紹介を挟みつつ取り組んだ。芳賀は、文学の漫画化などでよくみられる、コンテンツ化の二つの王道(作品内容の再話と作家の伝記)とは異なる第三の道として今日の文豪のキャラ化に注目する。代表作をモチーフにした「異能力」なる特殊能力を駆使して文豪同士が戦うバトル漫画『文豪ストレイドッグス』。文学書が失われてしまう異常現象を食い止めるため「特務司書」になったユーザーが文豪キャラを「転生」させて敵と戦うオンラインゲーム『文豪とアルケミスト』。これらに代表される文豪キャラものにあって、書くことの苦悩と同人誌執筆の馴染み深さがリンクするのもあってか、支持者の圧倒的多数がオタク的女性である。ここから芳賀は、女性特有の受容論に進む。大塚英志と東浩紀が築き上げた、先行する作品群の人物造形要素のアレンジメントによってキャラクターが生成する、というデータベース理論には説得力がある。ただし、物語なしにキャラクターだけが屹立するかのようなこの理論では、テキスト・ベースで同性愛的なカップリングを自由に妄想し、その偏差を愉しむ「関係性」中心の受容を読み逃すことになる。芳賀は最後に、詩人の作品から受けた印象を作家のキャラに変換した「真の二次創作」を謳う清家雪子の漫画『月に吠えらんねえ』の重層的物語性を高く評価して発表を締めくくった。

 『文アル』で論文を書いたこともある大杉は、その興味の発端に、ゲームのチュートリアル役が徳田秋声であったことを挙げる。秋声を専門的に研究している大杉から見れば、まだ読まれる機会のある横光と比べて、そのマイナー作家ぶりは、かつて近代文学研究が克服の対象としていた自然主義というジャンルふくめて近々のメディアミックスからことごとく無視されてきた事実を鑑みても歴然としている。にも拘らず、ゲーム内秋声はかなり高い人気を誇る。これはゲームに留まらず、ユーザーたちによる秋声作品の読書会、大杉の著書『小説家の起源』の再発見、秋声記念館の好況など現実社会にも波及する。フェミニズム的に問題のある秋声のような作家を女性たちが文脈を無視してこぞって消費する光景には、或いは潜伏する危うい政治性があるのかもしれない。事実、小林多喜二の人気キャラを共産党の機関紙『赤旗』が好意的に取り上げたことに対して、多喜二の政治利用を許すな、という反発がネット上で起った。彼女たちの自由な読み替えを肯定的に評価する大杉は、お仕着せの物語の強制はその活動の制約につながると警告する。

 討議では「文豪」で括られているのが男性作家に偏っているジェンダー的問題や、ネット記事の利用に関する研究者倫理など多岐にわたったが、興味深く思ったのは、基本的にデータベース理論を踏襲する大杉と、そこからの逸脱を読む芳賀の物語観の差だ。あくまで秋声への関心の延長で『文アル』に接近した大杉のような読者は、芳賀からすれば単独のキャラクターに集中する男性的な消費にみえたのではないか。芳賀の仮説では、メインターゲットの女性たちはキャラ同士の関係性に立脚したストーリーを消費している。物語の語を一義的に用いる必要はないが、このすれ違いには新たな議論への示唆があるように思えた。

 たとえば、芳賀は『文スト』と『文アル』とを同じ文豪キャラものとして大別せずに捉えているが、『文アル』では「尾崎一門」や「白樺派」などの文学史的括りが健在で、ある程度史実に則った関係性を再現するのに対し、『文スト』は太宰治を争って中島敦と芥川龍之介がライバル関係にあったり、樋口一葉が上司の芥川に心酔しているといったような、かなり突飛な関係性でドラマを肉づけしている。史実や原テクストに遡行してから派生する関係性と固有名だけを借り受けて自由に妄想される関係性は、同じようにみえても分割して考えるべき営みなのではないか。この疑問は、他の発表にも連接する。大杉は多喜二炎上事件を共産党の悪手とみているようだが、史実のうえで共産党員だった多喜二を『赤旗』が取り上げることにはなんら不自然な点はない。にも拘らず、ユーザーたちが〈我々の多喜二〉を汚されたように感じたのならば、そこでは歴史に重点を置かないかなり妄想的な変換が行なわれているといわざるをえない。これは日比がいうところの「効率化」のマイナス面――と私は読むのだが――の問題であり、現在性に縛られない広い歴史的視野の入口にもなりうるキャラ化が、同時に既存コミュニティだけで通用する狭い約束事で人々を縛り耽溺を促しもする。最後に質問された、文豪キャラを通過したユーザーは文学研究の場に帰ってくるのか、の答えもこのパルマコン的性格にかかっていよう。大杉がデータベース論から翻って、同じく非物語的な私小説を再考する仕事に意欲を示したように、現在の視点の交代は新たな光のもとで過去を再解釈する好機を与える。現在だけでも過去だけでもつまらない。各人が各様の宿題を持ち帰ることができる、たいへん豊かな大会であった。

 蛇足ながらディスカッサントが余り機能していなかった。が、そもそも(貧しい経験の範囲で恐縮だが)司会でもなければ発表者でもないという中途半端なこの立場が有意義に働くさまを私は見たことがない。各発表に共通する問題意識の指摘や大筋の議論の方向性などは司会に任せるか、もしどうしても置きたいのならば発表を深掘りするための役(特定質問者のような形)を専門的に配置した方がよいのではないか。個人の考えを開陳することは、いまやブログやSNSを活用すれば事足りる。実際の場に集まるシンポジウムの醍醐味は、異なる考えが目の前で衝突するそのスリリングさ、ある主張が他者との対話を通じて変更・修正されていくライブ的感動、要するにナマのコミュニケーションにあるのではないか。その意味でいえば、困難であることは承知の上で、発表者も持ち時間を超過して喋るのは慎んだ方がよい。純文学や文学館の危機に並行して、研究会の未来も決して明るくない。もし存続を願うのなら、関心を共有する一群の人々が実際の場所に集まることの意味を改めて考え直すべきであろう。いまここでしかできないこととは何か? 洗練された自己反省によって、危機は絶好のチャンスに変わっていくように思われる。