「古典・和歌は平和の産物ではない」より「2 内乱・戦争・権力闘争と古典・和歌の親和性」を期間限定全文公開○前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)

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前田雅之『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。

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前田雅之
『なぜ古典を勉強するのか 近代を古典で読み解くために』
ISBN978-4-909658-00-5
C0095
四六判・上製・336頁
定価:本体3,200円(税別)

●本書の詳細はこちらから。絶賛発売中です。
http://bungaku-report.com/blog/2018/05/post-167.html

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「古典・和歌は平和の産物ではない」

2―内乱・戦争・権力闘争と古典・和歌の親和性

 以前論じたように(「国文学」の明治二十三年―国学・国文学・井上毅」、前田他編『幕末明治 移行期の思想と文化』、本書Part5に改題して再収)、国文学なる学問は、教育勅語発布と同じ明治二十三(一八九〇)年に始まった。その前年は帝国憲法公布であり、明治国家の整備・確立と国文学の歩みはパラレルであったのだ。だが、当時、近世国学の系譜を引く近代国学も勃興期にあり、明治国家の枠組を拵えた井上毅は国学との交流が深かった。むろん、制度史(=法制史)と古典を同時に研究する国学の方が、前近代日本と近代日本を法的にうまく接続させること、即ち、歴史的正統性を有する帝国憲法を制定するためには、都合がよかったからである。

 国学とは、近世中期以降に発展した国文学・国語学・歴史学・文献学・有識学といった日本に関するあらゆる知を学ぶ学問であり、本居宣長の「漢意」「仏教」排除の姿勢に典型的なように、生まれた当初から当時の正統派である儒学・漢学、また、生活習慣の細かいところまで滲透していた仏教を敵視していた。外来思想故である。だから、言ってしまえば、イデオロギー性が強い学問あるいは運動であった。明治初期における平田派国学と廃仏毀釈の密接な関係はそれを如実に物語っている。

 それに対して、国文学は、国学に「文」が加わっただけであるのに、イデオロギー性は皆無であり、その方法は、文献学と作品鑑賞という人畜無害そのものの学問であった。しかし、イデオロギー性がないことが却って、奇妙な観念を惹起してしまったのだ。文学は平和の産物だという観念もその一つである。

 たとえば、『平家物語』に描かれる戦争も戦争讃美ではけっしてなく、無常観を通して、そこには平和への祈りがあると解釈するなどである。戦前、大いにもてはやされた『太平記』は、戦後、民主化教育のおかげで、すっかり排除されてしまった。だから、教科書にも入っていない。その理由としては、戦前に対する反省以上に、戦争に対して否定的ではないからだろう。否定的どころか、大虐殺と言える場面まであるし、もっと言えば、『平家物語』の宇治川の戦陣争いを踏まえながら、二人とも溺れてしまうというパロディー仕立てにしてしまうのも『太平記』であった(兵藤裕己『王権と物語』、岩波現代文庫)。

 そして、和歌や『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』に代表される古典は、上記の軍記物と異なり、まさしく平和の産物であると見なされていた。たしかに、『源氏物語』には、光源氏の須磨謫居なる事態まで描出するが、戦争・内乱は存在しない。政治的思惑は交錯し時に衝突するものの、一見平和な風景が描かれている。和歌も同様である。『古今集』以降、勅撰集は室町中期まで計二十一代を数えるが、いずれも平和な世界が横溢している。

 たとえば、文永の役(一二七四年)から四年後に成立した『続拾遺集』にはモンゴル襲来の影など一切窺えない。いつも通りの優雅な王朝絵巻である。それは、南北朝の動乱を経て、足利尊氏・直義兄弟が敵対した観応の擾乱(一三五〇年)が勃発し、直義の没後に成立した『新千載集』とて同じである。武家執奏(事実上の撰集主体)たる尊氏と敵対した直義、滅ぼした北条得宗家、さらには吉野で無念の死をとげた後醍醐天皇(一二八八〜一三三九)の歌までしっかり入集している。その中には、息義詮(一三三〇〜六七)・尊氏・後醍醐天皇と排列されている箇所もある(春上、八九〜九一番)。これだけ見ていると、戦乱どころか桜の和歌を和やかに詠み合う君臣和楽の世界まで幻視しそうである。

 それでは、色恋の世界を原則として描く物語はともかく、和歌や勅撰集はどうして平和な世界を描き続けるのか。それは端的に言えば、現実が平和ではないからだろう。部分的な内乱はあったとはいえ、実際に平和だった平安時代において、『古今集』『後撰集』『拾遺集』という三代集の後、『後拾遺集』が撰述されたのは、『拾遺集』から約八十年も経った白河院の時代であった。摂関政治全盛期には撰述されていないのだ。周知のように、白河院は院政を制度化し、そこに院として君臨するという中世王権の最高権力者である。とすれば、自己の権力の正統性を勅撰集に見出したと見て、ほぼ間違いはないだろう。新時代の新しい正統権力と勅撰集の関係がこうしてできあがったのである。

 その後、白河院は自身二度目の勅撰集である『金葉集』を作らせ、権力の傍流にあった曾孫の崇徳院(一一一九〜六四)は『詞花集』を作らせるが、共に十巻という通常の半分の大きさであった。本来の勅撰集に戻ったのは後白河院(一一二七〜九二)の『千載集』である。源平争乱下の一一八三年に下命されながら、平家が滅んだ後の一一八七年に成立した。なんとも凄まじい時代の変遷を撰者藤原俊成は見てきただろうが、後白河院にしてみれば、古い武家集団の崩壊と鎌倉幕府という新しい武家権力の誕生を睨みつつ、己が白河院同様の正統的権力であることをこの勅撰集で宣言したのだろう。

 これに次ぐ後鳥羽院の『新古今集』はさらに『古今集』を集名に取り込み、兵藤前掲書が指摘するように、日本の王は他ならぬこの私だと再度優雅に獅子吼したのだと思われる。勅撰集撰集の裏には、王権の正統性担保の闘争があったということである。

 しかも、後鳥羽院が承久の乱(一二二一年)の結果隠岐に配流された後、皇統を異にする後堀河院(一二一二〜三四)は定家に命じて『新勅撰集』を編ませている。これも後堀河院の正統性を主張するものに他ならない。その後、後鳥羽院皇統が復活した後嵯峨院による二度の勅撰集を経て、いわゆる大覚寺統と持明院統に皇統は分裂し、相互に激しく対立したが、政権(=本院)を握っている方が勅撰集を編んでいったのである。

 上記の『新千載集』の一つ前に、持明院統の光厳天皇が直義の協力を得て編んだ京極派の『風雅集』がある。これは、実質的に幕府を動かしている直義と光厳天皇の共同作業であった。それを承けて尊氏は、武家執奏という形態で光厳息の後光厳天皇になんと二条派の『新千載集』を編ませたのである。ここでは両皇統に配慮している尊氏権力の正統性が主張されていると見てよい。

 こうしてみると、勅撰集なるものは権力の正統性を証す装置だということになるが、それだけではあるまい。国内の様々な対立(大覚寺統・二条派対持明院統・京極派)、あるいは戦乱(源平争乱、承久の乱、南北朝動乱など)が出来することによって、逆に新たな勅撰集が召喚されていくのである。だから、こう断言しておこう。平和ではなく、闘争・戦乱のエネルギーが勅撰集を生み出すのである、と。

 してみると、中世の日本は、権力闘争や戦乱自体が和歌や和歌と連動する古典を逆に活性化していったと読めないであろうか。応仁の乱のごとき複雑きわまりない対立関係を和ませるのも和歌・古典や連歌であった。

 近代はこうした「偽りの平和」もなくなった。ために、平和を追求して凄惨極まる闘争の世界がまま現出するのではあるまいか。