「はじめに」、「信頼される教員とは」(第4章1)を期間限定全文公開○古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)

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間もなく刊行の、古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。刊行までの間、少しずつ小出しにしていきます。期間限定です!

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7月中旬刊行予定です。

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古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)
ISBN978-4-909658-01-2
C1037
A5判・並製・320頁
定価:本体2,700円(税別)

●本書の詳細はこちらから。予約受け付け中!
https://bungaku-report.com/blog/2018/06/post-185.html

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はじめに

■教育実習生と指導教員のために
 本書は、初めて中学校・高等学校の国語科の授業をすることになる教育実習生が主な読者の対象です。
 私はこれまで将来国語科の教員になる教育実習生を担当し、指導をしてきました。今の勤務校では4〜5時間の授業を担当してもらいます。教育実習生は与えられた教材の授業案を添削されて実際の授業に臨み、その後授業の批評会(反省会)をします。初めての授業で緊張して失敗し自己嫌悪に陥る実習生もいますが、最後にはいくつかの課題を乗り越えて大学に戻っていき、残された課題は大学に戻って、あるいは実際に教員となって時間をかけながら乗り越えていきます。教育実習の時期や授業の回数の違いこそあれ、これが多くの教育実習生が経験することであり、現在働いている国語科の教員が最初に歩んできた道だと思います。
 しかし、最近では学生が教育実習に来る前に知っておくべきことがいくつか抜け落ちていたり、また教員養成以外の学部、たとえば文学部の学生などは国語科の授業を作るための講義や演習を十分に受けていなかったりすることもあり、教育実習中にいろいろと説明することが多くなってきました。学生の質の変容だと言ってしまえばそれまでですが、大学改革に関わる様々な環境の変化もその原因の1つであり、教育実習生にも確実に影を落としています。
 また、大学では国語科教育学の理論的・原理的なことを扱う講義が中心であり、実際に授業を具体的に組み立てていくノウハウを知る機会はそれほどないのだろうと考えられます。仮に演習型の講義の中で授業を組み立てたり模擬授業をしたとしてもそこにリアリティを感じることができず、身につかないことも事情にあるかもしれません。これが教育実習生がいざ授業をしようとして途方に暮れ、さらには衝撃を受けてしまう原因にもつながっているのだと思います。これらは構造上の問題でもありますが、教育実習生には不運なことであり、できる限り改善されなければなりません。大学での講義内容と教育実習での授業との、その間を少しでも埋めることが必要だと感じています。
 これらの問題のすべてに答えることはできませんが、教育実習生として実習校に行く前に授業作りの具体を少しでも知ることができれば、教育実習生ならびに指導する教員の負担はある程度抑えられるのではないかと思い、本書を世に出すことにしました。

■既に現場に出ている国語科教員のためにも
 本書の特徴は、授業作りの時には何に注意をし、授業中にはどのような出来事が起きるのか、そしてそこではどのような有効な方法があるのかを私の経験に基づいて具体的に説明している点にあります。授業者として振る舞う時に、何に気をつけているのか。このことは従来は現場に出てから考え、磨かれていくことが普通だったように思います。しかし、教育現場をめぐる状況は必ずしも授業力を育成していく時間やゆとりが確保されているとは言いがたいものです。特に、近年では新学習指導要領に関わって「主体的・対話的で深い学び」が提唱され、それに対応する授業者の力も同時に伸ばしていくことが求められています。新任の教員でいきなりこうした新しい教育支援の方法や視点を学んで実践していくことはハードルが高く、いわゆる普通の、平均的な授業をする際に混乱を生じることにもなっていると思います。本書は、昨今の教育の課題には深く言及はしていませんが、どのような学校に勤めようが、課題のある学習者集団がいようが、どのような授業になったとしてもそれらに適応する普遍的な国語の授業方法や視点があると思っていて、無難な授業の作り方を中心に述べています。この意味では普段の授業を見つめ直してみるという点からも、本書は現場に出て既に授業を行っている国語科の教員に向けたものにもなっています。

■教育現場と研究の場との溝を埋めるために
 また、大学等の研究の場と学校現場との乖離の問題は依然として残っています。これは国語科教育学という研究の場だけではなく、文学研究や言語研究の場と学校現場との間にも深い溝があるように感じています。私自身も研究者が提示するものに対して「その教材の扱い方はちょっと......」だとか「いや、それは学習者には無理がありますよ」と思うことはあります。しかし、このように現場が「研究者は何もわかっていない」だとか、逆に文学・言語研究者が「現場ではこんな扱われ方しかしていない」という、お互いを批判しあう、あるいは接点を見出そうとしない絶望的な状況については、是非とも互いが歩み寄り、生徒の学びという点において建設的なものに変わってほしいという願いがあります。このような事態が起きてしまう原因にはいくつかありますが、1つには中学校や高校の授業でことばやテキストがどのように扱われているのかを研究者が具体的に知ることができないことにあるのかもしれません。また、そもそも「研究(理論)」と「現場(実践)」という言葉を対立的に使用していること、そしてそれに慣れてしまっていること自体にも問題があるのかもしれません。いずれにせよ、本書によって授業作りの具体を明らかにすることで何らかの解決に向かうとすれば、これ以上の喜びはありません。

■常に学び続け、問い続けるために
 本書には、「かもしれません」、「でしょう」という断定を避ける表現が多く見られます。これは私の経験や認識が不足しているため、誤った理解の浸透を避けようといういわば姑息な述べ方なのですが、一方で完成された教育がないことにもよります。書店に行くと次々に新しい教育方法や視点や理論を冠した書籍が多く平積みされています。このことは常に教育が更新されていることを意味します。仮に完成された教育方法等があったとしても時代とともに生徒とともに変わっていきますし、変わらなければなりません。このため、あくまでも本書で述べられていることは今の時点における私の1つの見解であって、異論があることは認めています。唯一の方法はありませんから、あくまでも私が向き合ってきた授業において比較的有効であった方法や視点を暫定的に述べているに過ぎません。
 私自身も数年でそれまでのやり方を変えます。他の教員の優れた授業を観察して自分の授業にとってよいと思うものは思い切って吸収してしまい、古いものを捨て去ってきました。捨てる勇気も必要なことです。学びとは生徒だけのことではなく、授業者のことでもあり、常に学び続け、問い続ける存在であるのです。

 本書の構成は以下の通りです。
 第1〜3章は主に教育実習生に向けたものであり、教育実習での授業が始まる前、授業中、授業後について、実習生が具体的に何をして、そしてそこでは何が起きる/起きているのかを私の経験を踏まえて述べたものです。
 第4章は他の章と重なるところはありながらもあまり触れることのなかった、しかし授業作りのヒントとなることをいくつか述べています。
 第5章はそもそも国語の授業を行うことはどのようなことなのかについて考え、「子ども」「作品/テキスト」「国語」「古典」等を取りあげ、「○○とは何か」という原理的なことを述べています。
 第6章は具体的な教材を取りあげながら授業作りのイメージを抱いてもらうための章です。第5章までで触れた教材やその他の有名な教材を取りあげました。すべて過去に私が行った授業記録の一部です。最後には私が実際に行った授業(中学校1年生の芥川龍之介「蜘蛛の糸」の授業)の文字おこしをしたものを載せています。 
 第7章は、教材研究や分析をしていく時に参考となる文献やウェブサイトの情報をまとめた章です。文献については比較的入手しやすく新しいものを選びました。
 最後に、教材の本文引用は以下の現行の教科書を基本とし、それ以外については逐一注記しています。また、古文の現代語訳についてはジャパンナレッジからの引用、漢文・漢詩については『漢詩・漢文解釈講座』からの引用です。

平成29年度用教科書別作品本文引用一覧(ページ数は教科書の頁、本書の頁の順に示しています)
 教育出版『伝え合う言葉 中学国語1』
  ・芥川龍之介「蜘蛛の糸」124-133頁☞231頁
 学校図書『中学校国語1』
  ・「猟師、仏を射る事」(『宇治拾遺物語』)184-188頁☞311頁
  ・ヘルマン=ヘッセ「少年の日の思い出」222-233頁☞114頁
 学校図書『中学校国語2』
  ・太宰治「走れメロス」130-131頁☞39頁
  ・「猫また」(『徒然草』)193-195頁☞310頁
  ・「高名の木登り」(『徒然草』)192-193頁☞311頁
 東京書籍『新編 新しい国語2』
  ・「九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の」(『枕草子』)123頁 ☞185頁
  ・「仁和寺にある法師」(『徒然草』)125頁 ☞310頁
 学校図書『中学校国語3』
  ・「香炉峰の雪」(『枕草子』)169-170頁 ☞42、179頁
  ・「防人に」(『万葉集』)161頁☞59頁
  ・魯迅「故郷」232-233頁☞210頁
 筑摩書房『精選国語総合 古典編』 
  ・「花は盛りに」(『徒然草』)65-67頁☞307頁
 三省堂『現代文B』
  ・中島敦「山月記」32頁☞137頁
  ・夏目漱石「こころ」185-187頁☞114、205頁
 第一学習社『高等学校 古典B 古文編』
  ・「村上の先帝の御時に」(『枕草子』)58頁☞192頁
  ・「初冠」(『伊勢物語』)35頁☞34頁
  ・「ある者、子を法師になして」(『徒然草』)20-21頁☞196頁
  ・「名を聞くより」19頁(『徒然草』)☞310頁
  ・「忠度の都落ち」(『平家物語』)98-101頁☞218頁
  ・「若宮誕生」(『紫式部日記』)208頁☞130頁
  ・「かぐや姫の昇天」(『竹取物語』)31頁☞174頁
 第一学習社『高等学校 古典B 漢文編』
  ・「推敲」(『唐詩紀事』)7頁☞54頁
  ・李白「独坐敬亭山」20頁☞211頁
  ・「鴻門之会」(『史記』)38-41頁☞201頁

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第4章「授業作りのヒント集」

①信頼される教員とは

 教員として生活していて生徒から信頼されないのはつらい。しかし、生徒に信頼されるのはどういう時なのでしょう。あなたがかつて出会った先生の中でも、信頼する先生というのはどういう人だったのでしょうか。記憶をたどって考えてみてください。
 私は大きく2つあると考えています。
 1つは人柄です。話していると安心する、言葉をきちんと受けとめてくれる、生き方に尊敬できる、考え方が素晴らしい、子供扱いをせずに自分たちと同じ目線で話をしてくれる......もしかするとあなたが出会った先生というのはこういう人であったかもしれません。私の場合もそのような先生は数多くいらっしゃいました。
 しかし、あなたが教員になった時、人柄といいますが、人格というのはそんなに変えられるものではありませんし、過度に演じてしまうとそれは無理があります。だから、性格や人柄によって生徒との信頼関係を作っていくことは少々難しいといえるでしょう。ただ、誠意ある行動を続けていると、生徒にも伝わることはあります。逆に誠実さがなくなると、信頼を失うことでしょう。
 もう1つは授業力です。授業が上手い、面白い、楽しい、この教科だったらあの先生のところに行けば絶対だ、等の圧倒的な授業力や教科の力を持っている場合、生徒から一目置かれる存在になることが多い。この逆はあまり考えたくないものです。
 また、人柄は好きではないけど、授業は面白くてわかりやすい場合もあるでしょう。

 1「人柄は好きで、授業も面白い」
 2「人柄は好きだけど、授業はつまらない」
 3「人柄は苦手だけど、授業は面白い」
 4「人柄は苦手で、授業もつまらない」

 大きくはこのように分けられると思いますが、人柄というのは生徒の個性にも依存するのでこれに求めるだけで信頼が得られるかというのは難しいところです。授業力もある程度この問題はあるでしょうが、人柄ほどは左右されないのではないかと思います。
 いずれにしても、人柄や人格を高めていくことよりも授業力を磨く方がまだ手を付けやすいのではないでしょうか。
 新任のうちは生徒とも年齢が近いこともあって、生徒は気軽に寄ってくることが多くなります。それに浮かれていて、授業力を高めることをせずに年齢を重ねていくと、わりと悲惨なことになります。年齢を重ねると、以前だったら髪を切ったり、新しいネクタイを締めれば、「先生髪切った?」だとか「それ新しいネクタイですよね」という反応があったのですが、最近ではそういう反応がなくなってきました。歳をとったということなのでしょう。
 若いうちだからこそ、授業力を磨いていく必要があるのだろうと思います。「尊敬」はされなくてもよいのですが、「信頼」はされたいものです。もちろん、そのためにはまず生徒を信頼する必要があるでしょう。
 そして、隙を見せることも大切なことです。生徒の前でどのような「私」を振る舞うか、それは完璧を求めようとしていないか、このことはいつも気にかかっています。これは半分笑い話ですが、私は体調不良のためにしばしば休むことが多く、そんな私はよく休む人として認識されているようです。それはともかくとして、教員自身も失敗をしたり勘違いをしたりうっかりしていることは多くあります。そんな自分を否定して、より完璧な姿を求めようとしていき、そして生徒の前でも完璧に振る舞おうとする人がいます。基本的にはその人の生き方や教育哲学の問題でもあるので私が何を言えるわけでもないのですが、少なくとも失敗した姿は見せられるのならば見せた方がいいのではないかと思っています。人は失敗するものなのだ、完璧っていうのは難しいのだ、失敗した姿を生徒に見せることも教育の効果として考えてみてもいいのではないかと思います。生徒には「失敗をしなさい」といい、自分は失敗する姿を見せないのは、どうなのでしょうか。最近はこのように考えています。