「授業作り3・発問計画――組み合わせて授業の流れを作る」(第1章7)を期間限定全文公開○古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)

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間もなく刊行の、古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。刊行までの間、少しずつ小出しにしていきます。期間限定です!

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7月中旬刊行予定です。

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古田尚行『国語の授業の作り方 はじめての授業マニュアル』(文学通信)
ISBN978-4-909658-01-2
C1037
A5判・並製・320頁
定価:本体2,700円(税別)

●本書の詳細はこちらから。予約受け付け中!
https://bungaku-report.com/blog/2018/06/post-185.html

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「授業作り3・発問計画――組み合わせて授業の流れを作る」(第1章7)


 発問というのは、授業者が生徒に問いかける言葉のことです。定期試験や問題集でいえば、設問に当たります。こうした問いがあることによって、生徒は教材本文に意識が向かうようになります。逆に問いがなければ、ただ漠然と読むだけになります。授業を離れた読書というのは、もしかすると問うことのないものなのかもしれません。これはこれで楽しめると思いますが、通常の読書ではなく教室で教材を読む以上、読む際の視点や知識や技能の獲得が必要です。
 理想をいえば、優れた授業者や生徒の優れた発問が生徒に内在化して積み重ねられ、自立的に問いを抱きながら読むことになってほしいものです。仮に問い続ける生徒はいたとしても、答えがわかった瞬間に問うことを辞めて、次の問いを生み出さなくなります。これは一度の授業でどうにかなる問題ではありませんから、できる限り問い続ける生徒を育成するためにも、発問は練るに越したことはありません。このようなことができる生徒を育成するためには、短期的ではなく長期的な教育が必要です。そのためには一回一回の地道な授業の積み重ねを続けていく必要があります。教育はともすれば短期的な変容を求めがちですが、人間はそう簡単に変わるものではありません。短期的なものも含めて、中長期的な展望、そしてそれを授業者自身が受け入れて続けていくことが大切だと思います。

 さて、発問は大別すると基本的な知識や読み取りを確認する発問と、生徒はすぐには答えられずに思考を働かせないといけない発問の2つがあります。前者は質問とも言えるでしょう。便宜的に前者を「確認発問」、後者を「思考発問」と名付けることにします。実際にはすべての発問は思考を促すはずですから、あくまでも説明のために分けているだけです。▶注6
 確認発問は、漢字の読みや語句の意味、文法事項、作者の生きている時代の知識や他の作品やモデルなど、読めばすぐにわかったり調べたら答えられたり、既有知識や既習の事項が中心となります。多くは知識面が想定されますが、教材を読解する時にも確認発問はあります。それは指示語(「これ」、「このような」等)の内容であったり、知識といっても複雑な知識を複合的に用いながら作成していく難しい古文の現代語訳もあったりしますから、すべてが簡単に答えられるわけでもありません。知識にも、そして確認発問にもレベルがあります。
 多くの実習生の授業案や実際の授業で、確認発問しかしないことがよくあります。その結果は、生徒の思考が促されず退屈で寝てしまうということになったり、仮に思考が促されたとしても授業の目標に向かった思考ではないということになります(一発ネタのようなものです)。
 そこで思考発問を授業中に取り入れる必要が出てきます。
 生徒の思考を促すといっても、授業の目標に向かっていく場合と、拡散していく場合があります。多くは前者になります。教材中のある記述(筆者の主張)を考えることや、教材全体のテーマに関わる抽象的なものが多くなるでしょう。これは授業の最初に授業の目標として出す場合と、ある程度確認発問で読み解いていった後の最終的な問いとして出す場合に分かれます。いずれの場合も、その発問に答えること自体が1つの学びのきっかけともいえます。新たなものの見方の発見であったり、より高次の思考の抽象化であったり、その分野に興味を抱くようになったりと、様々な効果が期待できます。
 それでは後者の拡散していく場合の思考発問とはどのようなものでしょうか。それは答えが1つに定まらず、教材や教室を越えて、社会でも問題になっていく問いであるといえるでしょう。オープンエンド式の授業には、多くはこのような問いが最後にあります。

 議論が抽象的になったので、具体的な教材で考えてみましょう。有名な『伊勢物語』の「初冠」を例に発問を考えてみます。

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『伊勢物語』「初冠」
【本文】

 昔、男、初冠して、平城の京、春日の里に、しるよしして、狩りにいにけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、垣間見てけり。思ほえず、ふるさとにいとはしたなくてありければ、心地惑ひにけり男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやるその男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける

  春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず

となむ、おいつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ

  みちのくのしのぶもぢずりたれゆゑに乱れそめにし我ならなくに

といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける


【訳】
 昔、ある男が、元服をして、奈良の京の春日の里に、所領の縁があって、鷹狩に行った。その里に、たいそう優美な姉妹が住んでいた。この男は物の隙間から二人の姿を見てしまった。思いがけず、この旧い都に、ひどく不似合いなさまで美女たちがいたものだから、心が動揺してしまった。男が、着ていた狩衣の裾を切って、それに歌を書いて贈る。その男は、信夫摺の狩衣を着ていたのであった。

春日野の......(春日野の若い紫草のように美しいあなた方にお逢いして、私の心は、この紫の信夫摺の模様さながら、かぎりもなく乱れ乱れております)

と、すぐに詠んでやったのだった。こういう折にふれて歌を思いつき、女に贈るなりゆきが、愉快なこととも思ったのであろう。この歌は、

みちのくの......(あなたのほかのだれかのせいで、陸奥のしのぶもじずりの模様のように、心が乱れだした私ではありませんのに。私が思い乱れるのは、あなたゆえなのですよ)

という歌の趣によったのである。昔の人はこんなにも熱情をこめた、風雅な振る舞いをしたのである。

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 この例での確認発問としては、たとえば次のようなものになるでしょう。本文に番号を振っているので、確認しながら見て下さい。

 ①「『初冠』とは何か」
 ②「『狩り』とは何狩りのことか」
 ③「『なまめいたる女はらから』の意味/訳は何か」
 ④「『はしたなく』の意味/訳は何か」
 ⑧「『若紫』とは何の比喩か」
 ⑩「『ついで』の意味/訳は何か」

 発問の立て方は、いわゆる5W1H、いつ(When)、どこで(Where)、誰が(Who)、何を(What)、なぜ(Why)、どのように(How)ですが、これらの組み合わせもあります。最初に本文を通読した後に、「誰が出てきて何が起きてどうなった」等の場合です。
 基本的には「何か(どのような意味か)」という問いになることが多く、辞書で調べるとすぐに見つかることがあります。
 しかし、①「『初冠』とは何か」と発問をして、生徒が「元服」と答えたとしても、その「元服」の意味をさらに「では、『元服』とは何ですか」と確認してみると、意外に知らないことがわかります。他にも、④「『はしたなく』の意味/訳は何か」と発問をして、「不釣り合いである」と答えたとしても、さらに「では何と何とが『不釣り合い』なのですか」と踏み込んで問うていくことが増えると、一問一答式のような授業ではなくなります。生徒の答えがどのような知識や本文の根拠から導き出されたのを確認していく発問も、授業中では多く必要になっていきます。
 一見知識を問うようでありながら、④「はしたなく」のように本文の内容がわからないと答えられないものがあります。他にも、⑧「若紫」、⑩「ついで」なども同じことがいえます。
 本文の内容を直接問う発問には次のようなものが考えられます。

⑤「『心地惑ひにけり』とあるが、誰が何によって『心地惑ひにけり』なのか」
 これはそれまでの内容を理解しておかないと、「何によって」というのは答えられません。したがって、この発問に答えられない生徒がいたら、まずはこの一文を訳したり内容を把握します。また、答えられるようにするためには、この発問の前に人物関係の整理(男、女はらから)や④「はしたなく」の意味や、すぐ後の「ありければ」を確認しておくことが必要となります。

⑪「『思ひけむ』の意味/訳は何か」
 これは確認発問です。助動詞「けむ」の意味を知っていたら「思ったのだろう」と答えると思います。
 ここから少し寄り道をして、それでは「『けむ』の活用形は何か」と問うと、終止形と答える生徒もいるでしょうし、連体形と答える生徒もいます。疑問の係助詞「や」が直前にありますから、係り結びの法則が働いていると考えて連体形になり、疑問の意味を踏まえると「思ったのだろうか」となります。ここでさらに「誰が」と主語を問うことも可能です。また、「『だろうか』と推量しているのは誰ですか」と問うと、この物語を語る「語り手」に注目することにつながっていきます。
 
⑥「『男の、着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる』とあるが、もしあなたが誰かからこのようなことをされたら、どう思うか」
 この発問は、物語世界の出来事を現代的な視点で考えるというものです。古文や漢文の教材で行われることが多いのですが、もちろん説明文や評論文、小説でも問えるものです。
 この発問では、たいていの生徒は「ちょっと嫌だ、気持ち悪い」等と言うことになるわけですが、そのような反応が出てきた時に「古典の世界ではこの行動は『ちょっと嫌だ、気持ち悪い』ということになるのでしょうか」と問うてみると、どうなるでしょうか。現代と古典世界とのつながりというよりは断絶を意識させていく発問であるのです。

⑦「『その男、しのぶずりの狩衣をなむ着たりける』という一文があるのとないのとでは、どのような違いがあるか」
 直接内容を問うこともありますが、少し別の視点から教材を眺めることも必要なことです。なぜその一文があるのか、これだけだとわかりづらいので、「あるのとないのとでは、どのような違いがあるか」という形で問うていきます。ここでは男の詠む和歌に対する説明的な語りの役割をしています。

⑨「『おいつきて』には2つの解釈があるが、それぞれの解釈だと男の印象はどのように変わるか」
 「おいつきて」には、「すぐに」と「大人ぶって」という2つの解釈があります。教科書ではどちらかを採用して脚注に書いてあるでしょうが、これを利用してみて、人物像の違いを考えることができます。この問いは、いくつかの答えが考えられます。教材研究の段階で2つ以上の解釈があるとわかった場合、どちらかを採用するのも1つの手ですが、このようにあえて持ち込むことで少し角度を変えた切り込み方になるのです。また本文が確定されずに揺れていることは古典テキストではよくあることなので、古典世界の言葉のあり方の問題として考えることもできるでしょう。▶注7

⑫「『昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける』とあるが、なぜ語り手は『昔人は』と語ったのだろうか」
 今を生きている語り手が「昔人は」と過去のことを語ることの意味を考えること、ひいてはこの物語がなぜ語られたのかを考えることにつながります。物語の内容にも関わりますが、そもそも「人が何かを語ること」の意味を考えることはまた違った次元での発問になります。
 なお、この箇所では「かく」の指示内容を問うことも必要なことでしょう。

 以上、具体的な発問を見てきましたが、確認発問と思考発問という単純な問題ではなく、補助的な発問(答えられない場合を想定して易しく直された発問)などもあります。実際に授業を作る時には、様々な発問を組み合わせて、読解の流れを作っていかないといけませんが、それは授業の目標に合わせていろいろな流れになります。教材ごとに発問の形は異なりますが、授業を作る上では何が問えるのかを考えてみて、それらを組み合わせることでどういう授業ができそうかということも考えてみてください。

 私がこれまで見てきた授業でなされた発問や読んできた本の中の記述から思い浮かんだいくつかの興味深い発問があります。
 「走れメロス」でメロスがセリヌンティウスを殴った後の場面です。

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「走れメロス」
【本文】

 群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人のさまを、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔を赤らめて、こう言った。
「お前らの望みは叶なったぞ。お前らは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、お前らの仲間の一人にしてほしい。」
 どっと群衆の間に、歓声が起こった。
万歳、王様万歳。」
 一人の少女が、緋のマントをメロスにささげた。メロスは、まごついた。よき友は、気をきかせて教えてやった。
「メロス、君は、真っ裸じゃないか。早くそのマントを着るがいい。このかわいい娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく悔しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した

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 たとえば、①「万歳、王様万歳」のところを踏まえて「なぜ「メロス」ではなく「王様」万歳なのでしょうか?」という発問。▶注8
 また、②「勇者は、ひどく赤面した」のところは「最後の一文があるのとないのとではどのように異なるか(最後の一文にはどのような効果があるか)」という発問。
 他にも、「王がこれまで行ってきたことを踏まえて、この場面での群衆の態度をあなたはどのように評価するか」等もあるでしょう。この問いは、現在の日本の社会状況を踏まえるとかなり危ういものかもしれません。▶注9
 ところで、私自身も自分ではよくわからない問いは数多くあります。どんなに教材研究をしても、どんな風に考えていけばいいのかわからないことがあります。特にそれが学習の中心となる場合は深刻です。
 しかし、そのような時は思い切って授業で積極的にその問いを生徒に投げかけて一緒に考えるようにしています。
 『子どもの思考が見える21のルーチン―アクティブな学びを作る』では「オーセンティックな発問をすること、すなわち決まった答えがなく、教師自身も答えを決められないような問いは、知的な活動に満ちた学級文化をつくるのにとてもよい。そのような問いによって、子どもは教師もいっしょに学んでいるのだと思い、みんなで探究する学級文化ができる」と述べられています。▶注10 普遍的な問い、汎用性の高い問いを常にいくつか用意をしておき、どのような授業でもそれらの問いを用いていくことがルーチン(習慣)となることで、問うことが内在化されていくこともありうるでしょう。
 もちろん、こうした問いを投げかけると、着地点が見つからずにオープンエンド式の授業になってしまい、モヤモヤとしたものが残ることもあります。
 しかし、問いはその場で、その授業の中だけで答えるだけではなく、その問いを抱えながら生活していくこともあるでしょう。問い続ける主体が育つためには、大切なことのように思います。▶注11


※注については、本書をご確認ください。