畑中千晶「巻頭言 初めての古典が『男色大鑑』でもいいんじゃないか」を期間限定全文公開○染谷智幸・畑中千晶編『全訳 男色大鑑〈武士編〉』(文学通信)

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間もなく刊行の、染谷智幸・畑中千晶編『全訳 男色大鑑〈武士編〉』(文学通信)から、原稿を一部紹介していきます。期間限定です!

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12月中旬の刊行予定です。

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染谷智幸・畑中千晶編
『全訳 男色大鑑〈武士編〉』
ISBN978-4-909658-03-6 C0095
四六判・並製・240頁(8頁カラー口絵+232頁)
定価:本体1,800円(税別)

●本書の詳細はこちらから。予約受け付け中!
https://bungaku-report.com/blog/2018/07/post-229.html

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巻頭言 
初めての古典が『男色大鑑』でもいいんじゃないか

畑中千晶


 恐る恐るか、それとも嬉々としてか。いずれにせよ、本書の扉を開く者は、思わず知らず頭に血が上っている。西鶴の研究者ですら、長年にわたって論ずることを後回しにしてきた作品なのだ。『男色大鑑』に関する論文が全くなかったわけでは、むろん、ない。だが、西鶴の名前から連想する作品といったら、まずは『好色一代男』『日本永代蔵』『世間胸算用』。論文の数にしても、これらの作品の方が比較にならないほど多いのだ。

 そうした中、本書を手に取ってくださった、あなた。もし、これが初めての古典であったとしても全く問題ない、いや、むしろ好都合なくらいだ。「好き」「気になる」「もっと知りたい」というのが、ものごとを前に進める時の最大のエネルギーだ。心の声の赴くままに読み進めていくのが一番である。

 「男色」とは、男性が男性を性愛の対象とすることをいう。「女色」と対になる言葉だ。ちなみに女色とは、男性が女性を性愛の対象とすることを指す。時代は江戸であるから「動作主体が男性」の言葉ばかりが生まれていく。女性が女性を性愛の対象にするということがなかったわけではないし、西鶴も『好色一代女』の中で描写している。が、しかし、「男色」「女色」と共に列挙しうるような名称が、そこにあるわけではないのだ。「男色」という名称があるということ、そして、「女色」と対になって認識されていたということは、それが広く社会の中で受け入れられていたことを示している。とはいえ、「男色」が社会の中で多数派であったとは思われない。西鶴の創り出した破天荒なキャラクター、色道(性愛の道)のエキスパートである一代男・世之介は、三七四二名の女性と契る一方で、七二五名の男性とも契ったという。この数字のバランスは、極端な誇張を伴いながらも、「男色」が「女色」を決して上回ることのなかったことを暗に示している。要するに、六人に一人ぐらいの比率で男色を嗜んだということだ。多くもないが、少なくもない。絶妙な数字である。『男色大鑑』冒頭から繰り返し「男色」賛美が唱えられていくけれども、こうした社会背景の中で、強いて主張する必要があったのではないかと考えを巡らせてみることができるだろう。

 では、『男色大鑑』において、男たちの性愛が赤裸々に描かれていくと期待して(あるいは恐れて)いた方が良いのだろうか。答えは否である。基本的には何一つ、直接的には描かれないと思っていた方が良い。だからといって西鶴の描く男色物語が、純粋無垢の、極限のプラトニック・ラブなのかと言えば、それもまた否である。性愛はある。確かにそこにある。でも、描き方は直接的ではなく、連想の網の目をたどっていった先に、実は意外と大胆に、わかる人にはわかるように、描かれているのである。つまりは「読む」ことに尽きる。読んで、読んで、読み尽くす。だから「初めての古典が『男色大鑑』」というのは、実は最良の古文攻略法かもしれないのだ。月も山も桜も、ありとあらゆるものが二重三重に意味を持つ古典文学において、極めて穏やかで品の良い物言いの中に最良のエロスが織り込まれているのを知ることは、古文を読む最大の楽しみだ。

 この現代語訳が、魅惑の古典世界への道しるべたらんことを。
 いざ『男色大鑑』の世界へ。