若衆関連、私の一推しグッズ?ネタ?(4) 染谷智幸

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染谷智幸
「最近入手、博多人形の菊慈童」

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昨年の6月30日に、新宿で行われた『男色大鑑』の朗読芝居で、「嬲り殺する袖の雪」を取り上げましたが、その折に演出の田村連さんが、この話を能(謡曲)仕立てにされたことが話題になりました。

じつは、『男色大鑑』も、そして男色そのものも、能との関係が深いことは、知る人ぞ知る世界です。能には男色の対象とされた稚児(ちご)が多く登場しますし、また、能の大成者としてあまりにも有名な世阿弥は、足利義満との関係で様々な話があります。

西鶴は生前、小説家というのは世をしのぶ仮の姿、裏アカみたいなもので、本業・本アカは俳諧師でした。この俳諧師にとって能はすこぶる重要でして、多くの能作品を諳んじていないと俳諧師は務まりませんでした。歌人にとっての『源氏物語』みたいなものです。

そうした関係を踏まえて、この朗読芝居の当日や後日のトークショーで、畑中千晶さんが『男色大鑑』と能の関係を、とくに『松虫』等に触れながら、単なる下地・影響関係のみでなく、二次創作・アダプテーションの関係から見直されましたね。これはなかなかに、新しくかつ挑戦的な取り組みでして、大いに注目されるところです。

さて、そんな折に、写真の菊慈童の人形を入手しました。能の舞台のシテ(主役のこと)のスタイルですね。けっこう小振りで高さ17センチ程度です。下の写真を見てください。面をつけていることがわかりますね。

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次の写真は後ろからのものです。髪がなんとも美しい。

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さて、この『菊慈童』は観世流でそう呼びますが、他流ではだいたい「枕慈童」と言います。

あらすじをまとめましょう。まずは「菊慈童」そのもののお話から。

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中国は周の時代のことでした。時の天子・穆王(ぼくおう)の寵愛を受けた寵童であった慈童は、誤って王の枕をまたいでしまいます。それを臣下に咎められて、西の奥地・酈縣(れつけん)山へ慈童は流されてしまいます。王は形見として枕を渡しますが、幼い慈童はそれを手に、孤独と恐怖をにさいなまれつつも旅立ちます。慈童は、流刑の山地へと続く唯一の橋を渡った後、警護の官人に非情にも橋を切り落とされ、山中にひとり残されて生きることとなりました。

それから七百年の後、魏の文帝の時代のことでした。酈縣山のふもとから霊水が湧き出たとの一報を受けた帝は、勅使を派遣します。その勅使たちが山中に入りますと、そこには一軒の庵があり、中には一人の童子がいました。彼は、自分が流された慈童のなれの果てであることを明かします。そして形見の枕に添えられた妙文を、慈童は菊の葉に書きつけていたのですが、その葉から滴る雫を飲んだことで、不老不死の身を得たことを勅使たちに伝えます。

そして慈童は妙文の功徳を讃嘆しますと、不老長寿の薬の酒を讃えつつ、帝の長寿を言祝(ことほ)いで舞い戯れます。やがて、慈童は妙文を勅使に捧げると、ひとり仙界へと帰ってゆくのでした。

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つまり、七百歳の稚児なんですね。なんとも壮絶な艶やかさと言いますか、幽玄情調な世界ですね。さすが中国の広さ深さといったところでしょうか。

能の『菊慈童』は、この話の途中、七百年の後に魏の文帝が霊水探索のために勅使を派遣するところから始まります。山中の庵に独り住む不思議な少年に勅使は出会いますが、その少年が実は七百年前に流刑となった稚児だったという展開です。この実は何々というのは能でよく使われる手法ですが、これがこの話にはとくにマッチしていて劇的効果をもたらしています。

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この『菊慈童』(枕慈童)はよく上演されます。今年(2020年)も上演予定が各地にありますので、ぜひ一度鑑賞されると良いでしょう。