「その先」を考えるのはいけないことですか―中野三敏氏「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」への共感と疑義 (篠原 進)

第三十八回 西鶴研究会・中野三敏氏[講演]「西鶴戯作者説再考」/広嶋 進氏「『西鶴置土産』神話の形成―無視された青果戯曲―」(2014年3月27日(木)、青山学院大学 総合研究ビル10階会議室)では、中野三敏氏の講演に関して、当日の議論が深まるようにということで、事前に「意見、感想」を募っています。本投稿はその第一弾です。以下お読みの上、ぜひ第三十八回 西鶴研究会にご参集下さい。お待ちしております。
編集部注※テキストは、ルビは括弧に入れ、傍点は下線を入れることで処理いたしました。
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「その先」を考えるのはいけないことですか
―中野三敏氏「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」への共感と疑義

●篠原 進

はじめに  今春の第三八回西鶴研究会は、文化功労者の中野三敏氏をお迎えしてのシンポジウムが企画されている(三月二七日・於青山学院大学)。それに先立ち同氏の「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」(『文学』第一五巻・第一号。二○一四年一、二月)が公開された。
 両者の内容が同一か否かは不明としても、名著『戯作研究』(中央公論社・一九八一年)の著者で誰しもが敬愛する泰斗の講演内容を深く理解し、充実した議論をするためには事前の学習が不可欠であることは間違いない。そんな理由から西鶴研究会代表の染谷智幸氏と相談の上で、「前座」を買って出ることとした。本来なら『文学』誌上への投稿が最適なのだろうが、時間的な制約もある。スピードを重視して今回もネット上の「西鶴リポジトリ―」を借りることとなった。
 笠間書院編集部岡田圭介氏のご助力を感謝したい(討論の際の便宜を考慮して中野氏の論文からの引用を多くしたため、冗長でしまりのない文章となってしまった。ネットの特性とご海容下さり、読み飛ばしていただければ幸いである)。
さわやかな読後感  院生のころから助言を頂いていることもあり、どんなお叱りを受けるのか(私信ではいつも、カタカナ語の濫用を戒められている)、判決に臨む被告のようなドキドキ感と、「笑中に刃をかくし」(岡西惟中) ファイティングポーズをとる戦士のような昂揚感。交錯する不安と期待の中で拝読したが、その読後感をネット風に記せば「いいね!」の連発で、逆に拍子抜けするほどであった。
 副題にあるごとく、「江戸の眼と現代の眼」の二つが不可欠という論旨で(それは当然、どちらか一方のみでは駄目ということを意味する)、全く異論はない。ただ時折、「江戸の眼」を持つ頑固なご隠居が前者の優位性をしきりに呟くノイズが混じる。その音が次第に大きくなり、気が付くと後者の存在がかき消されるほどの轟音へと変ずる音の遠近法については付箋(ちなみに江戸時代はこれを「不審紙」と称し、それを冠した艶笑咄もある)を貼り、真意をうかがう必要があるかも知れない。
 中野氏は言う、「自らも昭和初年〔引用者注・三島由紀夫と同年齢かと誤解されそうな記述であるが、実際は昭和一〇(一九三六)年生まれ。ちなみに、以下傍線は特に断らない限り、すべて引用者〕に生まれた以上、真意は近代主義そのものを否定し尽そうとしても出来る筈もなく、単に自身は近代主義的文学批評の領域に関しては、若い頃から全くの不勉強であったというに過ぎなかろう」(一五八頁)と。
 饒舌で、時には謙虚すぎるほどに率直な口吻。折しも都知事選直後(初読は、東京が今年二度目の大雪に見舞われた二月一四日)で、昔日の輝きを失った「殿」の滑舌の悪さが話題となっていただけに、三歳ほど年嵩な「殿」の健筆ぶりと柔軟さは際立っていた。
西鶴戯作者説論争  周知のごとく、所謂「西鶴戯作者説」論争は、中野氏の論文「戯作の範囲―『一代男』首章を例にして」(長谷川強氏編『近世文学俯瞰』汲古書院・一九九七年)を契機とする。氏によれば、それに対し谷脇理史氏や堀切実氏など、七氏の反論があったという。
 西鶴研究を少しでも活性化させたいと演出された、中野氏らしい挑発。それを充分に理解した上で、苦笑しながら反論する谷脇氏。自他共に許す、エースと四番バッターの擬闘。ベンチ・ウォーマーの身としては、どこか余裕の感じられる論争で私たちを覚醒させてくれた先輩後輩の仲が何とも微笑ましく、羨望の眼で眺めていたことを記憶している。
 中野氏は『雅俗』(八号・二○○○年)の「再答」への反論が皆無だったため、「多分西鶴特別視に傾く研究者には殆んど受け容れられなかったものと思う」(一四○頁)と記すが、おそらく違う。同じ「戯作」でも、中村幸彦氏のそれと、中野氏のそれとは微妙に違うのだという「前提条件」や本文に即した具体的な読みがもっと早く提示されていれば、間違いなく再反論があったのではないだろうか。結果的に論争は中断し、谷脇氏も泉下の人となってしまった。心はずませる論争の再燃は、もう永遠に叶わないのだ。
西鶴研究のいま  感傷を振り払い、私の回想に少しお付き合い願いたい。そんな虚脱感の中で、木越俊介氏の論文(「西鶴に束になってかかるには」『日本文学』二〇一二年一○月)と出会った。詳細は省くが(拙稿「あらすじの外側にある物語―『新可笑記』の表現構造―」『青山語文』四三号・二〇一三年三月・参照)、一読して感じたのはある種の「窮屈さ」であった。
 なぜこれほど禁欲的に西鶴を論じなくてはならないのか。谷脇氏がご存命なら、これをどう読み、どう答えたであろうか。しなやかに西鶴を論じ、あれほど心をときめかせた、広末保、松田修、前田愛、野口武彦、高田衛氏らの仕事は、もはや過去のものとなってしまったのだろうか。
 もし、伸び盛りの手足を縛っているものの正体が「江戸そのものに即」し「江戸的感性の分脈で論じるべき」という呪縛(ものさし)にあるとするなら、その神話は絶対的で今も堅持されるべきものなのだろうか。何よりも「発熱する胡桃」がもたらす、書きたい、喋りたいという衝動をそれは結果的に封じ込めていないか。そんな思いをこのネット上でつぶやいた(「発熱する胡桃」『西鶴リポジトリ―』二〇一二年一〇月二四日)。
束になってかかるべきアジェンダ  私の心情が届いたか否かは、分からない。そんな中、翌年の西鶴研究会(第三六回・二〇一三年三月二一日)で、木越俊介氏をゲストに迎えてのシンポジウムが実現した。参加者の関心は専ら、西鶴はどこまで政治や社会を意識して書いていたか、それと〈ぬけ〉との関わりという点にあったが、高校、大学、カルチャー講座などさまざまな場で西鶴を講ずる多くの研究者が集う機会ということもあり、私は「束になってかかる」べき方向を軌道修正すべきと述べた。
 すなわち、(かつて先達たちが導いてくれたように)私たちは教室という「戦場」で西鶴と一回的な出会いをする (場合によっては、それ以後二度と西鶴に触れることがなくなる) 多くの受講者たちに、西鶴の凄さと迫力を十全に伝え、その脳裏に西鶴の印象を深く刻み込むことが出来ているだろうか。
 不可とするなら、その原因はどこにあるのか。仮に今やっている研究が教室で全く通用しないとすれば、その病弊はどこにあるのか(もとより専門的な研究が無用と言っているのではないし、授業のためだけに研究しているわけでもない)。
 またこれまで秀作とされていた一編が、今も熱を内包しているとは限らない。そのためには従来の評価にとらわれない「発熱する胡桃」の再発見が不可欠であると。
 もし教える側がそうした努力を忘れ「研究」を口実に超専門領域という蛸壺に閉じこもり、誰にも批判されない状態に安住しているなら、研究(業界)と教室との絶望的な乖離はますます拡大し、救いようのない状態になってしまうのではと。
飯倉洋一氏の反論  自戒を込めて発言したつもりであったが、有働裕氏の「報告」(西鶴研究会ホームページ)を「私なりに読むと」と断った上で、飯倉洋一氏はこう反論している。
 「私見を述べておけば、研究者が一般読者に西鶴の面白さを伝えるために、研究上の厳密な手続きを経て同時代的な読みの復元を目指すよりも、現代人にインパクトを与える読みを提供することに力を注ぐべきだという篠原のスタンスには賛成できない。教室にいる学生に「なぜそんな読みが面白いのか?」と疑問を持たせ、やがて現代とは異なる物差しで読んでいることの方が大事だと私は思う。
(中略)現代の価値観に基づく面白さを伝えるのは古典研究者の本来の仕事ではない。といって、現代と切り離された好事家的な営為であってもよくない。現代人が失った価値観に基づいた当代の読みでの面白さを伝え、それを現代に問い返し、架け直すことが古典研究者の責務だと思う」(「西鶴読解の壁」『リポート笠間』五五号・二○一三年一一月)と。
 前掲のごとく、私はあくまでも「西鶴」の伝道師でもある教師が「束になってかかる」(運動として取り組む)べき課題は木越氏の言うそれとは違うと述べたのであり、それぞれの研究者が「研究上の厳密な手続きを経て同時代的な読みの復元を目指す」姿勢を否定したことは一度もない。
 そういった意味で飯倉氏の批判は的外れなのであるが、特に反論はしない(念のために言っておけば、サンデル教授のような講義は好みではない。私の目標は一つ。受講生が教室を離れ一人になった時に深くうなずいてくれるような「胡桃」を数多く届けること。内包するエネルギーの有無という基準で見れば、西鶴の作品であろうが村上春樹のものであろうが関係ないのだ)。
 ただ、「同時代的な読みの復元」というスローガンのいかがわしさについては後述する。
西鶴をどう読むか  いずれにせよ、西鶴研究会で述べたことは私個人の漠然とした印象であって、特定の論文を指してのものではなかった。そんなことで、あまり議論も深まらなかったのであるが、再論の機会は思いがけず早く来た。同年九月七日、「京都近世小説研究会特別企画・ワークショップ・西鶴をどう読むか」が開催されたのだ。
 全国各地から京都に集った、多くの研究者。その中には西鶴を専門としない高名な研究者も数多くいた。立錐の余地もないほど多数の参加者を集めた主因は、強い発信力を持つ優れた研究者の飯倉氏が企画を主導したことにあるが、もう一つの理由は西鶴に対する関心の高さにあったのではないだろうか。
 勝手な想像を記せば、教え、教えられた西鶴体験を参加者の多くが共有し、誰もが議論に参加できるほどにカノン化しているからではないか。
 ともあれ、会は成功裏に終わった。私はそこで発電された熱をなんとか保温したく、飯倉氏に次のようなメールを送った(一部省略)。
ワークショップは終わらない  (前半略)木越俊介さん、濵田泰彦さん、南陽子さん、廣瀬千紗子さん、そしてそれに先行する仲沙織さんの二回の学会発表。それらに共通するのは、(廣瀬さんの発表に即して言えば「刑部」の名さえも消滅してしまうような)無限に増殖し、場面転換する西鶴固有の叙述法をどう捉え、どう評価するのかという問題意識だったと思います。
 近代の文学観では到底とらえ切れないシュールさゆえに、これまでは完成度が低いとか、分裂しているなどとマイナスに評価され、時には黙殺されてきた諸編。それらの作品群「発熱する胡桃(テキスト)」を、従来の評価にとらわれない新しい眼で発見し、新たな評価基準(ものさし)で捉え返して不断に上書きをし続けること。それこそが、今「西鶴をどう読むか」という問いかけへの答えになるのかなとおぼろげながら感じています。
 上記のような姿勢を貫くためには、あらゆる前提を一度外さなくてはなりません。「政治性」の問題もその一つで、谷脇西鶴(ここでは『西鶴 研究と批評』一九九五年)が出るまでは多くの人が信じ込み(私自身もその圏内にあった)、疑いもしなかった「西鶴に政治批判はない」という神話。そうした前提条件は、未だ堅持すべきものなのか。西鶴作品のどれを読んでも、どの表現を考えてもその通りなのか。文学研究は多数決ではもちろんないし、具体的な表現に即した帰納法的なものであるべきなのに、なぜこの問題に関してのみ「演繹法」なのか不思議でならないのです。
濵田氏の読みへの疑問  濵田泰彦さんが取り上げた『武家義理物語』(一の五「死ば同じ浪枕とや」)に即して言えば、神崎式部の苦悩と悲壮な決断を記した後に「若殿御機嫌よく御帰城を見届け」と記していること、すなわち「若殿の御帰城を見届け」ではなくわざわざ「御機嫌よく」と付加していることの意味を考えることは不可欠なのではないでしょうか。広嶋進氏はそこに着目し、「「若殿御機嫌良く」とあるように、若殿にはまったく反省の様子が見えない」という絶妙の注を施しています。式部の傷口に塩を塗るような一文。絶望的な落差。そこに生ずる想像力の無限の空間。
 にもかかわらず、「この一文は村丸の「御帰城」を「見届け」た神崎式部であり、村丸の指揮を問題にした場面ではない。大井川での村丸の判断は確かに無謀だが、西鶴は「面に世間を立て」た式部の行為を称賛しているのであって、村丸の誤った判断を問題にしているのではないのではないか」といった何を言っているのか分からないような理屈で濵田さんが想像力を封じ込めてしまった背景には、未だに「神話」の呪縛から逃れられていないということがあるのでないかと危惧しているわけです。(以下略)
中野氏の読み   こうしたやり取りを隣席でお聴きになっておられた中野氏は今回、該話について堀切実氏の「『武家義理物語』中の「死ば同じ浪枕とや」考」(『近世文芸―研究と評論』五五号)を引用した上で、次のように述べている。
 「(該話は)極めて周到に西鶴の依拠する元禄当時の武家から一般町人までを含みこんだ、理想としての武士的倫理観の見事な形象化と評価されているようにしか思えず、即ち内容的にも、西鶴を含む町人層一般にも理想としての武士的倫理観への「共感」があるのが当然で、そこには「権力批判」や「政治批判」の意識は皆無ではないかとする私説と全く齟齬する所はないように思える。尤も堀切氏は「当代の非武士化、官僚化した現実の武士像への批判を意図した」とされるが、それこそ、庶民の間に出来上あがった理想的武士道(或いは「士道」)への合意ではあっても、「武士」そのものへの批判ではなかったことは瞭然としていよう」(一四二頁)。
飯倉氏の解説  これに先立ち飯倉氏は「「ワークショップ 西鶴をどう読むか」報告を兼ねて」と副題する前掲書(『リポート笠間』五五号)で、濵田氏の読みをこう解説していた。
 「(濵田氏は)無謀な若殿を批判する文脈ではなく、自分の息子を死なせた張本人の主君でさえたてる式部の忠誠的行為を礼賛する話として読解した。実は浜田の読解は、本話の「若殿御機嫌良く」の部分に着目した小学館全集の広嶋進注「若殿には全く反省の様子が見えない」を引き、西鶴が「美談に小さな亀裂を入れ」たと評した篠原進の「西鶴 浮遊するテキスト」(「日本文学」二○○七年一二月)や「浮世草子の〈毒〉と奇想」(『文学という毒』笠間書院、二○○九年)を意識した、アンチ篠原的な読みだったのだ」と。
 私には濵田氏の読みは所謂「支配的主題」(中嶋隆氏『西鶴と元禄文芸』)に先祖帰りしたもので、胡桃の譬えで言えば仮果を剥がすにも至っていないように思えたが、半世紀近く繰り返された「対抗的主題」「転換的主題」(中嶋氏・同)の応酬と分厚い研究史(堀切実氏『読みかえられる西鶴』。風間誠史氏「西鶴を読むということ」『相模国文』三一)をも克服しているというのだ。
 濵田氏の文意も不鮮明だし(「この一文は村丸の「御帰城」を「見届け」た神崎式部であり」というのは、「式部の眼に映じたものを記した」文という意味だろうか。もしそうなら、失意の底にある彼の眼には、何事もなかったかのごとく振舞う能天気な若殿がすこぶる上機嫌そうに映ったということになり、彼我の差はより鮮明になるだろう。また「村丸の指揮を問題にした場面」というのは、「文」ということなのだろうか)、首肯し難いが、とりあえずその理解に従うことにしよう。
西鶴のリバーシブル構造   神崎式部の一見色褪せた「美学」は微動だにしないとする濵田氏や中野氏。
 そうした「表」の読みについて異論をはさむつもりはない。ただ「自分の息子を死なせた張本人の主君でさえたてる式部の忠誠的行為を礼賛する話」を描いたという(濵田氏)このテキストは同時に、そうした歪んだ「忠誠的行為」への懐疑はもとより、式部の反対を押し切り結果的に惨事を招いた張本人・村丸の責任が一切問われていないという「裏」の文脈も内包していることを忘れてはならない。
 暗愚な上司に仕えることの悲哀。西鶴武家物の随所に散見する、極めて今日的なテーマ。それはまた、時代を超えた普遍性を有してもいるのだ(もちろん、それと政治批判とを短絡させるつもりはない)。
 ともかく、西鶴はそうしたリバーシブル構造〔先の西鶴研究会では乱歩『D坂の殺人事件』を例として述べたが、それはまた「二つの笑い」(『新可笑記』序)の内実でもある〕が見えるように書いている。問題は見えてしまったもの〔「学生の意見だからといって、それが見当違いのものであれば、丁寧に批判すべきなのは教師として当然なすべき仕事」(木越治氏)とはいえ、これは見当違いではないし、まともな学生ならこの程度のものは普通に読み取る〕をどう止揚するかである。
 既に見えてしまったものを、隠蔽することは出来ない。それを「西鶴の作品を始めとする諸々の通俗文芸の中で、庶民による武家への尊敬と信頼は極めて厚い」(一四六~七頁)から、「西鶴を含む町人層一般にも理想としての武士的倫理観への「共感」があるのが当然で、そこには「権力批判」や「政治批判」の意識は皆無」(前掲)という乱暴な理屈で裏の文脈を封じ込めようとしても、業界はともかく(個人的には学界でも無理だと思うのだが)、二~三○○人も集う「教室」でそうした暴力的とも思えるロジックが通用するとは到底思えない。
江戸的文脈という幻想  もし表の文脈だけを見て右のように説くことが、「研究上の厳密な手続きを経」た「同時代的な読みの復元」なのだとするなら、その前提条件(「江戸期の人は体制に安住していたので西鶴が現実批判をするはずはないし、当時の読者もそんな深読み、裏読みはしない」など)は根底から問い直さなければならないだろう。
 「江戸的感性の分脈で」ストイックに読むことと、思考を停止してしまうこととは本来別物なのに、「そもそも西鶴には、近代主義的な意味で現実批判をする意識は全くないといってよいほど無い」(一五一頁)と決めつけて、西鶴という発熱体が必然的にもたらす想像力の増殖を封じ込めてはいないだろうか。
 「神話」を拡大解釈し、時にはそれ口実として、「その先」を考え続ける苦悩から逃げていないだろうか。
 予め断っておくことを忘れたが、ここまで鉤括弧内に引用してきた記述の大半は今回の中野氏論文からのものである。大事なことは氏が「西鶴に現実批判はない」と断言せず、前後に留保を付けていたことである(傍線部)。問題の本質はここにある。
中野氏の本音  ①「(西鶴作品の)全部を江戸的感性の分脈で論じるべきだなどと主張するのでは勿論ない。そうではなく、一つの重要な意味において、出来るだけ近代批評用語を使わないようにしないと、見えなくなってしまうものが確実に存在するという、論者の節度の問題と御考え戴きたい」(一四三頁)。
②「(西鶴作品中に)確かに権力や政治批判が無いという立証は極めて難しかろう。しかし実際に江戸に生きていた人のうち、権力側の善政(仁政)を、或いは儒教の根本義たる性善説に信頼を寄せていた人の割合いの方が疑いようもなく大きく、その故に幸福を感じていた人が遥かに多かったことは間違いない事実ではなかろうか。無論批判されるべき武士は多く存在する。但しそれは庶民の側からみて、武士たるものの本分を踏み外した、武士らしくない武士だったのであって、素朴な意味において、武士の存在そのもの、或いは社会の根源を支える体制としての封建制それ自体が否定されていると考えるべき例は恐らく挙げることは出来まい」(一四七頁)。
③「恐らく今、我々が本当に知らなければならないのは、現代しか生きたことのない人間が想像力を駆使して(ということは現代に即することになるのだが)知り得ることであると同時に、寧ろ近代を経験しない西鶴や秋成その人に即した人生や思想のあり方そのものでもなければならない筈だと私は考える。西鶴に即し、秋成にも即し、つまりは江戸そのものに即することは、現代の我々にとっては、ある意味ではやはり至難の業でもあるだろう。~だが、一方で一般読者から離れて研究者としての視点から見れば、それは案外に容易な事でもあり得ると思う」(傍点は原文。一四四頁)。
④「西鶴作品に権力批判を読みとろうとする読者がいたとしても、且つては不思議でも何でもなかったろうが、今やそれは現実を生きた思想の持ち主である作者自身とは、直接の関わりはないが、という言葉を附して、テクスト論的に論じられるべき問題であろう。そもそも西鶴には、近代主義的な意味で現実批判をする意識は全くないといってよいほど無い。~社会性や人間肯定の精神に満ちた新儒教(朱子学及び、その発展型としての陽明学)を思想の中心に据えた体制が出来て、殆んど一世紀を迎えようとする安定期(経済ではなく精神の)に入った上方社会で、何を理由に政治批判をする必要があるのか。それでも従来の論者は、人間である限り批判精神はある筈と言い、或いは出版規制の然らしむ故のカムフラージュや「ぬけ」の技法という。しかし実際の所、西鶴作品に最も顕著な要素としては、現実肯定・人間肯定の昂まり以外殆んど、指摘出来ない。当然西鶴自身の理想(人間肯定と信頼の意志)と現実との喰い違いはあったに違いない。だが、そのような「批評精神」を人間不信、権力不信の近代主義のみで解釈することの無理は、到底否定しようがない。即ち近世文学研究者のなかに広がった近代主義一辺倒の思念の然らしむ結果である」(一五一頁)。
中野氏への共感と疑義  ①について、特に異論はない。ただ、「見えなくなってしまうもの」とは具体的に何を指すのだろうか。
 ②で明らかになったのは、中野氏の依拠するものがどうやら「割合が大きい」というような曖昧で漠然とした「江戸」の空気にあるらしいということである。ただ、作者はいつもマジョリティ側にあるとは限らないし優れた作者の多くは、むしろマイノリティと共にある。
 それにしても、村丸は本当に「武士たるものの本分を踏み外し」ていないのだろうか。
 
 ③も「西鶴に即し、秋成にも即」すという研究姿勢については異論がない。それは江戸に限らず、研究者のすべてが心掛けていることであり、「全集」をむさぼるように読むのもそのためである(ただし「西鶴に即して西鶴を読めば「戯作者西鶴」にならざるを得ない」という論理の飛躍については後述する)。
 問題はそれに続けて「江戸そのものに即(して研究する)」と記した点だ。理屈としては分かる。しかし、その範囲についてはもちろん、徳川時代のみでも二七○年近くある「江戸」について画一的な像を描くことがはたして可能なのだろうか。
 一○○年後の研究者に、「昭和・平成に即し、その感性の文脈」で村上春樹の文学(古典化して生き延びているかはともかく)を論じることを命ずるとしよう。その場合、あまりにも多様で私たちにも見えない「昭和・平成」はどう定義されるのであろうか。どう転んでも曖昧で一面的でしかないそれを同時代の限られた資料で抽出することを「研究上の厳密な手続き」と信じ込んで創り上げられた村上春樹論が、いかにいかがわしいものであるかは自明であろう。
江戸って何  少し例を挙げよう。
   成敗にはら(は)たをたつ猿の声(一)*意馬心猿
   いふにいはれぬ我まゝ大名(任口)
   直な竹もまけたいやうに曲る籠(同)
    〔『一時軒会合/太郎五百韻』延宝六(一六七八)年五月一二日興行〕。
 「一」は一時軒、すなわち岡西惟中。また「任口」こと如羊は、談林派の長老。岸得蔵氏(『仮名草子と西鶴』)によれば浄土宗知恩院の末寺・伏見西岸寺の僧であった彼は当時七三歳。淀船の発着所に近いということもあり京橋にあった彼の寺には宗因はもとより、西鶴、其角、芭蕉ら多くの俳人が立ち寄ったが、繁栄に取り残された伏見の衰微ぶりは顕著で、彼は「貧寺や檀那次第のころもかへ」(『桜川』)と自嘲的な句を詠んでもいる。
 そんな任口が「大名」に抱いた「我まゝ」というイメージ。相手を容赦なく成敗し、直(すぐ)な竹も曲げたいように曲げる権力への嫌悪と、屈折した感情。西鶴のそれを先取りしたような任口のとんがった「江戸」は、中野氏の想定するのどかなそれとは別の「江戸」なのだろうか。
研究と評論   「江戸に生きていた人のうち、権力側の善政(仁政)を、或いは儒教の根本義たる性善説に信頼を寄せていた人の割合いの方が疑いようもなく大きく、その故に幸福を感じていた人が遥かに多かった」からといって西鶴もそうだったことにはならない。
 西鶴自身も明かすごとく(『新可笑記』巻三の二)、政治、社会意識の希薄な者もいれば、そうでない者もいる。それは、今も昔も同じなのである。
 江戸時代特有のものもあれば、いつの時代も変わらぬ普遍的な心情もある。私たちはそのアナロジーに驚き、共感しながら文学作品を語り継いで行く。一方で、長い年月をかけ反復される読みに堪えられないものは自然に淘汰されることになる。「胡桃」に内蔵されているのは永久電池ではないので常に充電を繰り返さなければいけないし、教師がどんなに熱っぽく「現代人が失った価値観に基づいた当代の読みでの面白さを伝え」たところで、バッテリーの寿命が切れていればそれを捨てる他はない。そんな勇気も時には必要なのだ(中野氏は「大学生が、曽我兄弟は知らずとも叶姉妹の存在は周知」とするが、今は「周知」か否かは微妙だ)。
 冒頭に、中野氏は「江戸の眼と現代の眼」の二つが不可欠と主張していると要約したが、③の後半部分を承けた④あたりから雲行きが怪しくなってくる。二つの眼を「研究」と「評論」に二分せよと言うのである。それも評論は「あく迄も近代主義に基づく評論と断った上で行う必要があ」り、「苟もどこかで客観性を目指すべき研究者の仕事とを混同してはならない」(一四九頁)と。だが今問われているのは、その「客観性」の中身なのだ。
 ロラン・バルト流の「テクスト論」はともかく、「西鶴に即」することの究極はそのテキストに即して注釈的に読み抜くことにある。その結果、西鶴の「批評精神」を感知し、「人間不信、権力不信」を抽出したとしても、それはないものねだりで、「近代主義一辺倒の思念の然らしむ」、「評論」として排除すべきものなのだろうか。
化物の話を儒者はしつ叱り   「化物の話を儒者はしつ叱り」(『柳多留』二一)。この川柳を「怪力乱神を語らず」の教えを儒者は忠実に守っているととるか、そうした建前とは裏腹に多くの江戸人たちが化物話を楽しんでいる姿が透けて見えるととるかの判断は難しい。
 結論としては、どちらも正しい。逆に言えば、どちらか一つのみを正解とは言えない。共存する二つの読み。それを認めた上でどちらに重心を置くかは、その人に任されている。
 そういう曖昧さは学問的でないという人がいるかも知れないが、読みとはそんなものなのだ。もし「学問的」ということが、普遍性や客観性を意味しているとすれば、「西鶴を読む」ということは反・学問的営為なのかも知れない。ただ、私を西鶴研究に導いてくれたものの多くが、中野氏の言う「評論」で、決して「学問的」なものではなかったことも確かなのである。
人はばけもの  研究と評論に優劣がないことはもとより、二者は截然と分けられるものでもない。そもそも、「研究上の厳密な手続きを経て同時代的な読みの復元を目指す」というのは、西鶴研究においてどうすることなのか。
 たとえば、一見客観的と思える典拠研究。『西鶴事典』(「典拠一覧」)には「典拠」と称するものが数多くリストアップされている。この場合、「研究上の厳密な手続き」とは、確実に西鶴が使ったと証明することなのだろうか。だが、それはほぼ不可能だ。
 先日、『西鶴諸国はなし』の「典拠」を数多く提示した某氏と議論する機会があった。その「典拠」は「人はばけもの」(序)という西鶴の認識とどう結びつくのか。この場合の「ばけもの」は「モンスター」と同義か。彼はそうした意地悪な質問に困惑していた。が、前文に「都の嵯峨に四一迄、大振袖の女」とあり、それが「愛宕山参詣者を泊める宿屋の客引き女が、年をとっても娘の姿をしていることをいう」(宗政五十緒氏『井原西鶴集2』)のであれば(『西鶴織留』巻四の一)、「人は化けるもの」、「(状況によっては)化けざるを得ないもの」と読むべきで、ここでの意味はメタモルフォーゼに近い。
 変わるものとしての人間。それは中野氏が西洋モデルとして斥けた「個別性や多様性」 (一四五頁)と無縁ではないし、そう理解した時にはじめて、「人はばけもの」が西鶴作品全般を貫く重要な一句となるのである。
 「研究」は「評論」を導くためにあり、「評論」を欠く「研究」など無意味なのだ。
 もちろん、だからといって典拠研究が無用だと言っているわけではない。ただ、いくら「手続き」が整っていたところでテキストを揺さぶり新しい読みを喚起しないそれは、少しだけ空しい。大事なのは、典拠(正確には「らしきもの」)を見付けることのみが「研究」ではないということである。西鶴に近づく方法は他にいくらでもある。
 かつて谷脇理史氏は辺境の私を、「文庫本一冊でも西鶴研究は出来る」と励ましてくれた。「研究上の厳密な手続き」、などと身構えず真摯にテキストと対峙すれば、注釈書の間違いさえも発見することがある(拙稿「引用の修辞学」谷脇理史・広嶋進『新視点による西鶴への誘い』)。
西鶴戯作者説再考  「「戯作」の本質を述べれば、㈠に思想的には現実の全肯定をその核とし、現実批判・権力批判・政治批判は全く含まない。無論、それに比し得る行文は、西鶴とて幾つもあろうが、凡て従来の論者の如き「文学性」により評価されるような近代主義的な文脈で読まれるべきものではなく、~私にいう「近世的自我」に裏打ちされたものである。㈡にその文章はパロディを主とした弄文性、即ち表現第一主義というべく、㈢は内容的には教訓と滑稽を第一義とするものといえよう」(一五○~一頁)。
 中野氏は「戯作」をこう再定義し、改めて西鶴戯作者説を唱える。なおそこに「近世的自我」という聞き慣れない用語が出るが、氏はそれを以下のように説明する。
「(近世的自我とは)社会に厳しく対峙する「近代的自我」とは全く別物であり、むしろ社会を信じ、社会の支配原理との一蓮托生に、進んで自らを委ねるような自我のあり方である。私はそのような精神に支えられた文芸を「文学」と区別して「戯作」と呼びたい」(一五七頁)。
西鶴は戯作者ではない   別に西鶴を「特別視」するつもりはないし、西鶴が戯作者であるか否かという問題などどうでも良いのであるが、もし戯作者の定義が右のようなものであるとするなら、西鶴は戯作者ではないと断言出来るだろう。
 まず、㈢。西鶴作品に教訓と滑稽があることは間違いない。だが、それを「第一義とする」とは言えない。
 中野氏はかつて惟中の寓言論が表現論に終始していたのに対し、西鶴は「(寓言は)唯のうそ、出鱈目でなく人生の深奥にある真実を偽の表現によってあばき出す」ことと理解していたと断じた(『戯作研究』一四二頁)。
 基本的には正しい。ただ少し贅言を加えれば、惟中の「寓言のうそ」は「うそ」そのものではない。それは趣向としての「うそ」、方法として「うそ」を意味する(『俳諧蒙求』)。
 「寓言とは、我心に思ふ事を物に比し、事に託して云ひ出すの義」(『俳諧或問』延宝六年)とあるごとく、惟中は寓言の本質を弁えた上で敢えて表現論に徹していたのだ。となれば、西鶴の理解とあまり距離はないことになる(拙稿「八わりましの名をあげて」『青山語文』四四号)。
 いずれにせよ、中野氏が指摘する通りであれば、西鶴にとっての「滑稽と教訓」はともに「衣」や「甘皮」であって、「我心に思ふ事」(第一義)は「その先」にあることにある。
 
 ㈡の「パロディを主とした弄文性」が西鶴にあることも認める。ただし「表現第一主義」ではない。
 そもそも、パロディに毒や諷刺はないのだろうか。井上ひさしの言を借りるまでもなく、パロディとは「似ている歌」を語源とする。問題は何と何をとり合わせるかであり、両者の落差が大きければ大きいほど、その効果(笑い)も大きくなる。
 となれば出来るだけ権威あるものを選び、そこに極めて卑近なものをあしらうのがパロディの極致。その取り合わせ方は批評性と無縁ではない。「権威」をいじりまくるパロディこそが至上の毒なのではないだろうか。
 ㈢では西鶴に「現実批判・権力批判・政治批判」が「幾つも」あることを認めながら、それを「近代主義的な文脈で読まれるべきものではなく」と斥けてしまう理屈が分からない。そうした乱暴さは随所に見られ、次のような論理はどこまでの説得力を持つのだろうか。
「当代の庶民は武家の理想とする儒教的倫理観(それは多く武士道と共通するものであった)に絶大な信頼を寄せる存在であった。衣裳法度や鶴字法度は、それによって西鶴の武家に対する信頼のゆらぎを云々する程の事柄ではなく、西鶴にすれば、その位は簡単に順応出来る事柄だったのではないか。少なくとも西鶴は(というより江戸の人は大概)三十歳台にもなれば既に立派な大人であったと見るべきであろう」(一五二頁)。
 (仕方なく)順応すること(せざるを得ないこと)と、それを甘受することとは違う。ちなみに、「社会を信じ、社会の支配原理との一蓮托生に、進んで自らを委ねるような」、「近世的自我」は「自我」とは呼ばないし、江島其磧には相応しくとも、西鶴には似合わない。
中野氏の中村西鶴批判   中村幸彦氏は、こう書いている。「(西鶴にあるものは)人生の凝視にその根底を置いた現実の把握である。奔放する自由さと、昂進した熱情をもってする人間と社会の解剖である」、「西鶴は人情即ち不変の人間性のくまぐま迄を尖鋭な観察力を以て、照し出した」と。
 中野氏は「西鶴神話」が垣間見えるこの華麗な文章を、「近代主義的な表現が頻出」すると批判し、それが執筆された一九三八年という時代は「近代主義真っ盛り」で、「若書きの論」(一五五頁)だったとする。
 なるほど、中村氏はそんな時代を「恣意の横行」と嘆じ、その後江戸の文脈に沿っての研究を提唱することになる。そうした研究姿勢は中野氏に嗣続され、今に至っている。
 かつて中村氏を嘆かせた研究状況は七六年を経た今、大きく変質したように思えるが、中野氏の見立ては違うらしい。「近代主義的見解」の横溢に対する危機感が次のように吐露される。
①「「文学性」「反権力」「政治批判」、或いは「制度・装置」などの言辞に象徴される近代主義的見解が、広く所謂「文学研究」のみならず、およそアカデミズム全般に浸透しつつ今日に至る、戦後日本特有の事情に依るものかと推察する」(一四○頁)。
②「(近代主義)一辺倒的な姿勢は、いわゆる「古典研究」全般、特に近世文芸の研究にとっては、失う所が余りに大きくなりそうな辺りに危惧を持つものである」(一四一頁)。
③「近代主義的用語の頻出と、その事態がはらむと思われる大きな問題」(一四二頁)。
④「極く一般的な意味での儒教に基づく江戸理解は、その極端な誇張迄含めて、我々世代までは当然視されていた筈だが、現代の研究者にとっては、近代意識のみから単眼的に見ようとする結果、廓の存在そのものが非日常・反倫理・反価値とされてしまうのではないだろうか。世代間の格差がここ迄広がるのは、古典研究に携わる者として、決して傍観すべきではあるまい」(一四五頁)。
⑤「近世文学研究者のなかに広がった近代主義一辺倒の思念の然らしむ結果である」(一五一頁)。
⑥「「教訓」こそ思想性、或いは西鶴の所謂「談理」であり、寓意・寓言の内容であった。これを「文学」の名のもとに一瞥をも与えようとしなかったのが近代主義の不都合さ―これは、はっきり、「罪悪」と認識すべきであろう―の最たるものであろう」(一五二~三頁)。
 こうした中野氏の現状認識は正しいのだろうか。もしそうなら、入試業務の合間にそそくさとこんな長い駄文をしたためる必要はない。だが、実態は真逆なのではないだろうか。
 それゆえに、「真っ盛り」は望むべくもないにしても、せめて中野氏の所謂「評論」と称すべきものの居場所が確保され、西鶴研究の窮屈な金縛り状態をその魔杖で解き放って欲しいと願うのだ。
江戸の眼と現代の眼   だが、絶望はしていない。中野氏はこうも書いているからである。
①「江戸文化の解明を志す研究者ならば、「現代的観点」「今日性」を検証する方向性を近代に生きるものとして当然もち、また持とうと努めながらも、その一方で、それとは正反対に江戸に即する方向性を持つ視線の獲得にも真剣に努め、一歩でも江戸人の存在のあり方そのものに近づくべく(こゝでも、決してその賛美を意図するのみではないことも記しておかねばなるまい。気骨の折れることではある)、覚悟すべきではなかろうかと述べているに過ぎない」(一四八頁)。
②「現代の人間が江戸に即しようとする姿勢は、言わば現代に生まれた江戸研究者が、現代性をより十全な意味で立体化する行為と考えるべきであろう。それは現代人としての現代の眼と同時に、江戸研究者としての、もう一つの江戸人の眼を持つことであり、そうして始めて物事は立体的に見えてくると信じている」(同)。
 中野氏の深いため息が聴こえてきそうであるが、「現代的観点」と「今日性」を「当然もち」、「江戸に即する方向性を持つ視線の獲得にも真剣に努め」ること(①)。すなわち「江戸の眼」と「現代の眼」(②)の両方が不可欠という主張。どちらが欠けても駄目と言うのだ。
 「江戸の眼」と「現代の眼」。左右の眼の微妙なズレが映し出す、バーチャルな3D映像。もし中野氏の真意がその魅力を説く点にあるとするなら、もろ手を挙げて賛成する〔もっとも氏は別の頁では「当節の西鶴論者における近代主義一辺倒批判という主題の下に」(一五八頁)書いたとしているので、ぬか喜びなのかも知れないが...〕。
「その先」を考えるのはいけないことですか   「「権力批判」や「政治批判」が作品そのものの価値を担保する有力な内容と見られるのも、近代主義一辺倒的な見解の一つに過ぎない。(中略)江戸的封建制の真っ只中に、その封建制を深く生きていた西鶴にそれを求め、かつそれのみによって評価しようとするのは、相当な御門違いと言わねばなるまい。まさに西鶴のみを特別視しようとする故の甚だしい誤謬なのではあるまいか。かつて読んだ有働裕氏の引かれた一文に、篠原進氏の『廿不孝論』のどこかに「(西鶴作品の)面白さの"その先に何もなかったか"という疑問を感じている」という一文があったように記憶するが、これなど西鶴ほどの作者が、ただ面白いだけの表現ですませる訳がないという、西鶴特別視の典型的な言及であるだろう」(一四五~六頁)。
  有働裕氏によれば該論文は「「仁政」に対峙する西鶴」(愛知教育大『国語国文学報』六七)。だが、そこに引かれた拙稿は中野氏のそれとは違っていて、「『本朝二十不孝』の空間」(『弘学大語文』一○・一九八四年三月)が正しい。自分でも存在を忘れていた旧稿。そんなものまで覚えていて下さったことを感謝したい。この論文については、思い出がある。
 二○代の終わり近くに赴任した大学。そこが建部綾足ゆかりの土地だったこともあり、調査に訪れた高田衛先生を囲み同じ年頃の仲間たちと歓談する至福の時間を持つことが出来た。まだ、「主題」という言葉が死語化していない時代で、谷脇氏の『一代男』論などを肴に「主題のない小説なんてあるのか」などと、熱く議論した北国の透明な夏の記憶がよみがえる。
 ともあれ、拙稿はそれを熱源に、西鶴研究のトップランナーに上り詰めようとしていた谷脇氏への異議申し立てを、ドキドキしながら試みたものであった。
 『二十不孝』に綱吉への反感を読むか否かのホットな論争。猛火のど真ん中に投じた谷脇氏の強烈な冷却液。氏は言う、「西鶴にとって重要なのは、常識を語ることではなく、それを面白おかしく作品化すること」で、「西鶴小説は余りマジメに読まれすぎている」(「『本朝二十不孝』論序説」『西鶴研究序説』初出は一九六七年)と。
 「主題」が主関心事だった時代に、新しいパラダイムで「転換的主題」(?)を提示した画期的な論文。それに左袒しながらも、違和感を完全には回収しきれない自分がいる。そんな思いが、「「面白さ」のその先に何もなかったか」という問いかけとなったのだと思う。
 中野氏は「『本朝二十不孝』論以降の谷脇氏は別」と擁護するが、その後の谷脇氏は中野氏とは正反対の方向へと舵を切り、ひたすら「その先」を追求することになる。その背景に何があったのか。正確な理由は分からない。
 ただ、裏の文脈を常に内包する西鶴の独特な表現構造(これは決して西鶴を「特別視」することではない。他の作者と読み比べた上での「実感」なのだ)が氏の研究者魂を衝き動かし、そうさせたとも考えられる。
 私は最後まで「その先」を求め続けた、谷脇氏の大きな背中を追っていきたい。
最後に
 中野氏と谷脇氏、研究スタイルは違っていても、誰もが憧れ、目標とする巨星であることは間違いない。
 はるか昔、学会での発表後、中野氏はそこで取り上げた稀覯本が某書肆にあることを私にそっと耳打ちして下さった。早速購入したが、その時に感じたのは、豊富な学識を年齢や出身校の垣根を超えて惜しげもなく分け与えてくれる親分肌の中野氏の大きさと優しさであった。
 「所詮、現代の人間が江戸人に成り切るのは無理」(一四七頁)としても(谷脇氏の真意はともかく、私は中野氏が成るのは無理と主張したのではなく、あくまでも「理論上厳密には」という一般論で述べたに過ぎない)、中野氏がそれに一番近いことは衆目の一致するところである。
 江戸人になることを宣言し、それを貫き通した中野氏。だがそれは「書痴」と呼ばれるほど書物にこだわり抜いた氏だから出来たことで、常人に真似の出来ることではない。私はそのダンディズムに憧れ、それを遠くからまぶしく眺めながら、自分には到底無理と痛感し、「文庫本」に対峙する道を選んだ。
 そんな中野氏の包容力に甘え、卑言を書き連ねた失礼をお詫びしたい。当日は大好きな西鶴研究会のメンバーとともに中野氏を囲み、「中野学校」の生徒となって至福の時間を堪能したいと思う。
 最後になったが、西鶴研究の熱を大切に保温し、仲介して下さった飯倉洋一氏に深甚の感謝をささげたい。