第37回・西鶴研究会(2013年8月29日(木) 午後2時~6時、青山学院大学 17号館 3階 17308教室)

日程 第37回
2013年8月29日(木)
午後2時〜6時
場所
青山学院大学 17号館 3階 17308教室 

◆西鶴作品を、注釈する
日本女子大学   福田安典

 歌謡研究家で有名な忍頂寺務は古書の収集家でも有名で、三田村鳶魚とも親交があった。その蔵書の大部分が大阪大学蔵「忍頂寺文庫」として知られ、八文字屋本も数点所蔵されている。しかし、西鶴の作品は所蔵されていない。そのゆえか、忍頂寺務は西鶴研究者としては見なされてはいないであろう。
 その後に、大阪大学に入る際に、忍頂寺務の遺族の手元に遺された蔵書が発見され、 平成十二年「小野文庫」として大阪大学に収集された。そこに三田村鳶魚が中心となった西鶴輪講会の記録『西鶴織留輪講』が、活字化されながら未製本の状態で見つかった(国文学研究資料館のHPで公開中)。また、同じく仮製本で同一版面を持つ別本も国文学研究資料館に所蔵されている。この二本しかない西鶴注釈書から見えてくることについて報告したい。
 折しも、西鶴作品注釈者の前田金五郎氏が逝去された。氏のなされた注釈についても触れながら、西鶴作品を注釈することについて論じてみたいと思う。

◆西鶴における「文学」の成立  
東京女子大学   矢野公和

 木越俊介「西鶴に束になってかかるには」(「日本文学」二〇一二・一〇)に触発されたブログ上での応答、篠原進「発熱する胡桃(テキスト)」(西鶴研究会)、同「あらすじの外側にある物語―『新可笑記』の表現構造―」(「青山語文」)等の問題提起を承けて、今回西鶴に於ける「文学」の成立について考えたい。ここで言う「文学」とは、十九世紀西欧文学や日本の近現代作家に見出される、自己の見解をストレートに主張・表明するのではなく、作品世界そのものに語らせることで表現する在り方を想定している。
 『新可笑記』は雑然とした武家説話集であるとされ、西鶴作品中での評価は決して高くはないが、失敗作であるが故に西鶴文学の本質的な問題を体現していると考えられる。この作品は個別的な談理・教訓に眼目があるのではなく、複数の話をアレンジすることで新しい作品世界を創出することを目指したものであり、総体としての武家社会や武士の在り方そのものの問題点を描き出すのが作品の主題であったと考えられる。道義的な発想と人間社会の現実との間に宙吊りになっていた西鶴は、自らの表現手段としての「文学」、即ち虚構の作品世界を必要としていた(拙著『西鶴論』2「西鶴浮世草子の原点」)。
 「俗源氏」としての『好色一代男』からスタートした西鶴は、『五人女』『一代女』に於いて好色をテーマとする作り物語の世界を構築する一方で、『二十不孝』や武家物の諸作に於いて談理・教訓を標榜しながら作家としての主体を構築していたが、「大福新長者教」としての『日本永代蔵』を経て、最終的に『世間胸算用』の「難波西鶴」という作家主体に到達したと考えられる。
 やや新味に欠ける嫌いがあるが、上記のような点に関する私見をお聞き頂きたい。

(染谷記)

その他 司会は前回発表者の予定です