「西鶴戯作説」の議論に望みたいこと ―司会者の立場から―(有働 裕)

第三十八回 西鶴研究会・中野三敏氏[講演]「西鶴戯作者説再考」/広嶋 進氏「『西鶴置土産』神話の形成―無視された青果戯曲―」(2014年3月27日(木)、青山学院大学 総合研究ビル10階会議室)では、中野三敏氏の講演に関して、当日の議論が深まるようにということで、事前に「意見、感想」を募っています。本投稿はその第二弾です。以下お読みの上、ぜひ第三十八回 西鶴研究会にご参集下さい。お待ちしております。

第一弾は、有働 裕氏の以下原稿にあるように、
「その先」を考えるのはいけないことですか―中野三敏氏「西鶴戯作者説再考―江戸の眼と現代の眼の持つ意味―」への共感と疑義 (篠原 進)
でした。
-------------------

「西鶴戯作説」の議論に望みたいこと ―司会者の立場から―
●有働 裕

 第三十八回西鶴研究会での、中野三敏先生をお迎えしてのご講演「西鶴戯作者説再考」の日がいよいよ近づいてまいりました。先だって中野先生が『文学』2014年1月号にご論文を発表されましたことは、この機会に問題の所在を復習しておきたいと考えていた我々にとりまして、誠に有難いことでありました。それに伴ってはやくもあちらこちらで議論がヒートアップしており、さらに篠原進先生がこの笠間書院の「西鶴と浮世草子と研究repository」にご意見を掲載して下さりましたおかげで、問題の焦点化がなされたように思われ、白熱した論議となることが期待できます。当日の司会を力不足ながら引き受けました私としましては、前もってより多くの皆さんからご意見を給われれば幸いと存じます。
 さて、そのような司会者としての立場から、お願いいたしたいことが二点あります。
①「戯作」という言葉には研究者それぞれの思い入れがあると思います。ただ、「戯作」の定義論争に時間は割きたくないというのが私の考えです。中野先生が『文学』1月号の御論で定義された、「㈠現実の肯定を核とし、現実・権力・政治への批評は全く含まない ㈡パロディを主とした弄文性=表現第一主義 ㈢内容的には教訓と滑稽が第一義」が、この場での「戯作」の定義とした上で、西鶴作品をそのような概念で語ることの有効性や問題点を論じていければと考えます。従いまして、「いや、そもそも戯作というのはそのように限定できるものではない」といった御主張の方もいらっしゃるとは思いますが、それはまた別の機会にご論議下さるようお願いしたいというのが第一のお願いです。
②これは中野先生にもお願いしたいことなのですが、観念的な論争を避け、出来るだけ具体的な作品や論文を俎上に載せて論議を進めたいと考えております。中野先生のご論文は論旨明快で、御主張は以前『近世文学俯瞰』にお書きになったものからほとんどブレるところがなく、なおいっそう具体性を備えたものとお見受けしました。ただ、「近代主義に毒された文学的な読み」とは、たとえば誰の書いたどのような論文をさすのか、どの記述の解釈があやまっているのか、もう少し踏み込んでいただければと思いました。もはや典型的な「近代主義」を標榜する研究者は、たとえ近代文学会においても極めて少数であると私は感じています。この件は、フロアからご意見・ご質問されるかたにもぜひともお願い申し上げます。
 さて、付け足しではありますが、中野先生が『文学』のご論文で私の拙い論を二回も引用して下さいました。誠に光栄ではありますが、いずれも注がありませんでしたので、以下に記しました。
①p141下段1行目 その批判として書かれた有働裕氏の「仁政に対する西鶴」には...
→「仁政に対峙する西鶴―『本朝二十不孝』と『懐硯』の「諸国」―」『国語国文学報』第67集 平成21年3月15日 愛知教育大学国語国文学研究室発行
②p145下段終わりから4行目 かつて読んだ有働裕氏の引かれた一文に
→「『本朝二十不孝』研究史ノート(二)―「戯作」説の展開―」『国語国文学報』第63集 平成17年3月15日 愛知教育大学国語国文学研究室発行
 先日篠原進先生からお問い合わせがあったとき、②とお答えすべきだったところを①とお伝えしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。先の篠原先生の文章にも、終盤の「その先を考えるのはいけないことですか」のところで中野先生が引用を誤ったかのようなご指摘がありますが、すべて私の粗忽によるものです。あらためておわび申し上げます。