発熱する胡桃―木越俊介氏の挑発に応える(篠原 進)

篠原 進氏(青山学院大学教授)による投稿を掲載いたします。
先日発行された、『日本文学』VOL61(2012.10)に掲載された、木越俊介氏「西鶴に束になってかかるには」に対し、【西鶴研究をより活性化するためには、その挑発に応えることも必要かと判断し、拙文をしたためました】という趣旨です。
以下、テキストを掲載いたしましたが、ルビは括弧に入れ流などしています。ですのでPDFもアップいたしました。以下でご覧下さい。
http://bungaku-report.com/saikaku/saikakupic/20121024sinohara.pdf

■反応まとめ
木越俊介氏が発端となってはじまったやりとりは、以下に続いています。
随時更新していくつもりです。
篠原進氏のスピード反論(忘却散人ブログ)
○西鶴の政治性(閑山子余録)
西鶴の政治性 続 (閑山子余録)
応答の途(THIS WHEEL'S ON FIRE)
○西鶴研究会掲示板
http://ihasai.bbs.fc2.com/
・有働裕、飯倉洋一、井上泰至、染谷智幸、中嶋 隆各氏の書き込みあり。
○ 第三十六回 西鶴研究会◆共同討議「発熱する胡桃[テキスト]」報告(有働 裕)(2013.3.21・於青山学院大学)
2013.6 学界時評【近世】2012.7-2013●川平敏文[九州大学准教授]で言及あり
中野先生の西鶴論(閑山子余録)
中野先生の西鶴戯作者説再考は(忘却散人ブログ)
篠原 進 - あらすじの外側にある物語 : 『新可笑記』の表現構造 (大上正美教授退任記念号)
(『青山語文』43号・青山学院大学日本文学会)

○2013年9月7日(土) にワークショップ開催。
京都近世小説研究会 特別企画・ワークショップ「西鶴をどう読むか」【飯倉洋一、木越俊介、濵田泰彦、南 陽子、森田雅也、廣瀬千紗子、杉本好伸、濱田啓介の各氏】(2013年9月7日(土) 、キャンパスプラザ京都 2階)
ワークショップ終了(忘却散人ブログ)
ワークショップ終了のコメント欄に、篠原進氏の長文コメント(忘却散人ブログ)

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西鶴研究会の会員、およびこのコーナーをご覧になって下さっているみなさんへ

 先日、木越俊介氏「西鶴に束になってかかるには」(『日本文学』VOL61・二○一二年一○月)が発表されましたが、西鶴研究をより活性化するためには、その挑発に応えることも必要かと判断し、拙文をしたためました。
 
 実は今、仲沙織さんの発表(「『新可笑記』と『続太平記貍首編』―巻五の二「見れば正銘にあらず」考―」於・日本近世文学会春季大会・二○一二年六月二四日)に応える拙稿(「あらすじの外側にある物語―『新可笑記』の表現構造」『青山語文』43号・青山学院大学日本文学会・二○一三年三月下旬に刊行予定)を執筆中で、ここに記したような内容の論を加えた上で完成原稿としてご覧いただくつもりでしたが、それまで五ヶ月近く間が空いてしまうため、何人かと相談してみました。
 その結果、本来なら『日本文学』誌上で反論すべきですが、同じ理由で投稿も断念し、何よりも速さを重視して、バーチャルな「口頭発表」のつもりで当コーナーを利用させていただいた次第です。笠間書院さまに心より感謝申し上げます。
 ネットの時代ならではの、新しい試みですが、もしこれを契機に西鶴や浮世草子に関する議論が活発化し、甲論乙駁のさわやかな格闘技のリングが築かれるなら、わたしのドン・キホーテ的営為も無駄ではなかったことになります。
 自分でも忘れているほど古い拙稿の寄せ集めで、あくまでも「未定稿」ですが、ご笑覧下さり、ご意見、ご感想をお寄せいただければ幸甚です。完成原稿は『青山語文』(43号)に掲載予定です。

 発熱する胡桃―木越俊介氏の挑発に応える(篠原 進)
 ピースの欠けた、ジグソーパズル。読者はその空白を、想像力で埋めなくてはならない。どんなに読み込んでも不確定部分が残り、能動的読書を余儀なくされる西鶴の小説にはこんな譬えが相応しい。
 読解力が欠けていると言われてしまえばその通りなのであるが、西鶴の場合は意図的にピースを一、二枚抜いたのではないかとしか思えないような事例が散見するのだ。そうした方法を、わたしは比喩的に〈ぬけ〉と呼んできた。予め抜いてあるから、〈ぬけ〉。一見単純に思えるが、必ずしもそうではない。「ぬけ」はまた、俳諧用語でもあるからだ。
 木越俊介氏は言う、「隠微なものを明らかにするには、手続きとして繊細な論証過程を踏まざるを得ないのであるから、そこで使用される用語にあいまいさや誤解が混入してしまっては元も子もない」と。また言う「学術論文においては、空白をもって提示された謎や暗示全てを、一緒くたに「ぬけ」とするのではなく、使用する必然性がある場合(例えば、俳諧的な表現や内輪の人脈を重ねると理解できる手法など)に限り、用いられるべきではなかろうか」 と(▼注1)。
 なるほど、正論だ。少なくとも、一般論としては正しい。ただ「ある語を句表に出さずに暗示する省略語法」(塩村耕)(▼注2)といった大まかな概念規定は不可欠としても、方法としての「ぬけ」を厳密に定義することにどれほどの意味があるのだろうか。
 牧藍子氏の整理(▼注3)で「クリアになった」(木越氏)という、俳諧の「ぬけ」。だが、一連の労作がはしなくも暴き出したのは、「ぬけ」は多様で貞門、談林、元禄疎句の心付などそれぞれに差異が存する点はもとより、『近来俳諧風躰抄』などを見る限りでは談林きっての論客である岡西惟中にあっても混乱があり、厳密に定義することの不可能性ではなかったか。
 百歩譲って惟中の考えを抽出できたとしても、談林というグループの性格を考えるならそれが共通認識だったとは思えないし、西鶴と同じである保証も当然ないのだ。それは使用法に個人差のある「寓言」などについても同様なのである。
 付け筋がぼかされ謎が次第に高度化していく、「ぬけ」(「抜脱」とも)。西鶴は言う、「抜脱こころ行の付かたとて其座に一人も聞えず。我計うなづきて一句々々に講釈、大笑ひより外なし」(『大矢数』跋)と。彼にとっての「ぬけ」とは、第一義的にはより高度で、人を驚かす謎を提示する装置だったのだ。
 西鶴はそうした謎解きの楽しみを小説に持ち込み、「しる人はしるぞかし」(『好色一代男』巻一の一)、「近年の色人(の逸話を)残らず。是に加筆せし。されど替名にして。あらはにはしるしがたし。此道にたよる人は合点なるへし。其里其女郎に。気をつけて見給ふべし。時代前後もあるべし」(『好色二代男』巻一の一)と思わせぶりに読者を挑発した。
 灰屋紹益ら多くのモデルを、「今業平」「俗源氏」世之介という一人の主人公に形象化した『一代男』(▼注4) 。そうした操作を施すことなく、世伝の背後に三井秋風ら多くの「色人」たちを揺曳させた『二代男』(▼注5) 。木越氏が槍玉にあげたのは専らタイトルに〈ぬけ〉とあるものであったが、右の拙稿で述べたごとく、〈ぬけ〉は「政治的な文脈での「あぶない情報」を感知させる方法」に限定されるものではないのである。
 「自由にもとづく俳諧」(『大矢数』跋)を掲げ、「そしらば誹(そし)れわんざくれ」(『生玉万句』序)とうそぶいた西鶴であるが、一方では「天下にさはり申し候句」(下里勘州宛西鶴書簡)を気にする繊細な側面もあった(▼注6)。京坂は江戸ほど出版に対する規制が厳しくなかったというのが実情だったとしても(▼注7)、西鶴自身は必ずしもそう受け止めてはいなかったのだ。〈ぬけ〉はまた、そうした制約を克服し、多少大げさに言えば表現の自由を獲得するためにも好都合で不可欠な方法だったのである。
 ところで、自在な読みを許容しながらも、こと「政治的な文脈」に限ってバイアスがかかるふしぎな傾向が近世文学研究者の一部に見受けられるのはなぜだろうか。
 西鶴研究の必読文献に、中村幸彦「「天下の町人」考」(▼注8)がある。「町人の実力誇示の巧みな表現」として、「左翼的な研究者が、階級意識の昂揚と見た」(▼注9)「天下の町人」という用語が、実は将軍直轄地に住む町人の誇りを示したものであることを実証した記念碑的論文。これ以後、近世文学研究の基本姿勢は定まり、江戸時代人の考え方や感性に沿って考証する実証研究が主流となり現在に至っている。
 江戸人の視線で見るという方向性について、異論はない。ただ、どんなに江戸人を気取ったところで完全に成り切れるものではないし、江戸期といえども個人差があるはずのものを特定の資料を過大視して、あたかも同時代の共通認識であるかのように一括してしまうのも乱暴であろう。政治、社会意識の希薄な者もいれば、そうでない者もいる。それは、いつの時代も同じなのである。
 忘れてならないのは、中村氏が斥けたのはあくまでも「天下の町人」という用語に過剰な階級意識を読むことなのであり、衣装法度、(町人を倒産に追い込む)大名貸、鶴字法度といった広い意味での政治的事項までをも西鶴が甘受していたとは一言も述べてはいないのだ。決めつけや思い込みは、逆に贔屓の引き倒しになる。
 なるほど、西鶴は「衣装の御法度なくば、何か唐織上に着物も有まじ」(『二代男』巻八の三)、「衣装の御法度かたく守りて、随分目立ぬ仕出し」(『男色大鑑』巻八の四)と書き、「此時節の衣装法度、諸国、諸人の身のため、今思いあたりて有がたくおぼえぬ」(『日本永代蔵』巻一の四)と述べている。だが、こうした記述を根拠に、西鶴は禁令に従順で体制に甘んじていたとは言い切れない。
 というのは、「衣装法度桜に嘆く生まれ時」(短冊)と詠み、「(其時は)唐織、鹿の子の法度もなく」(『西鶴諸国はなし』巻一の六)、「(衣装は)人の目だつ程なれども、其頃いまだ世に衣装法度もなき時ぞかし」(『椀久一世の物語』巻一の一)と記して、自由な装いが可能だった往時を懐かしむ一方で、「衣装は法度は表向は守り。内証は鹿子類さまさま調へ」(『本朝二十不孝』巻一の三)といったしたたかな現実的対応と脱法行為を書き記しているからだ。大名貸(▼注10)や鶴字法度(▼注11)については、今さら言わない。
 いずれにせよ、そうした「政治」に触れることは、当世の風俗や社会を積極的に詠み込んできた西鶴俳諧の当然すぎる帰結でもあったのである。
 「ある作品の一話に少しでも言及している先行研究を完璧に把握するのにはかなりの困難が生ずる」、「トータルなレベルでの見解を持つには到底至らない」、「作品の読みとはあまり関係がなく、表面的な趣向にとどまる」、「西鶴の読解の壁は高く」、「西鶴研究の胸を借りるつもりで」といったエクスキューズを並べ、分厚い予防線を張りめぐらした上で、木越氏は三つの「試案」を提示する。
 一は、男たちの接触を嫌い息女と偽装夫婦を演じた老臣が、自分の妄念や良き縁談への障害を断ち切るために左の腕を斬った話(『武家義理物語』巻六の二「表向きは夫婦の中垣」)。木越氏は言う「芥川の段を明示的に「やつす」ことで、鬼の種明かしという謎解きを誘導し、最後の腕を斬るという場面で瞬間的に、男が渡辺綱・鬼に「見立て」られることで、それに応えたことが西鶴の趣向」と。文意が通りにくいが、本文中に明記された「鬼一口」の縁で、渡辺綱伝説が導かれ、その連想が腕切りの場面に投影しているということだろうか。
 なるほど、書かれていないものをそう読み解くことで、谷崎潤一郎『春琴抄』を彷彿とさせる緊迫した「義理」の世界が相対化され、揺さぶられるのは間違いない。でも、なぜ「左」の腕なのだろうか。ちなみに謡曲『羅生門』は左右を明記せず、御伽草子『羅生門』は「右」としている。
 二も鬼の絡む『懐硯』(巻一の一「二王門の綱」)。本書と『西鶴諸国はなし』(巻一の四「傘の御託宣」)とが「おろか村」型笑話(森山重雄)(▼注12)という点で通底するというのは定説であるが、『懐硯』では「描かれる人々を笑いながらも、天変地異においては読者自身も似たことをしかねないという点で、前者(引用者注・「傘の御託宣」)にはない苦みがある」としている。
 これも文意が曖昧であるが、「非日常的状況では」と理解すれば良いのだろうか。たしかに、そうした設定で人々の反応をうかがうというのは『懐硯』の特質で、一心同体だった奥様の急死という「非日常」に直面した乳母がいつもは明晰な判断力を狂わせ下総を代表する名家を荒屋敷化する一話(巻三の一「誰かは住し荒屋敷」)など、その典型でもある(▼注13)。
 しかし、頂妙寺の二王のそれを鬼の腕(かいな)と誤解してのドタバタ劇が暴き出したのは、はたして人々の愚かさなのだろうか。なるほど本文には、「今もおろかなるは世の人そかし」とある。だが、それを額面通りに受け止めて良いのか。たしかに、「命をとらるれはとて世にのそみなし」と「末代のかたり句」に腕(かいな)を見ようとひしめく老人や「前後かまわぬ無分別」の若者など、騒ぎに翻弄される愚か者がいることは間違いない。ただ、「身体よろしき人はしんしやくして是を見」なかったとわざわざ付加したことの意味も読み解かなくてはならないのではないだろうか(▼注14)。
 身分や状況によって見るものや見えるものが違い、同じものでも見る角度によって違って見えるという寓喩。「ルビンの壺(盃)」。ローカルな譬えで言えば、見る者の立ち位置で一本から四本まで姿を変じた「おばけ煙突」。『西鶴諸国はなし』(巻二の六「男地蔵」)に伏在したテーマを、西鶴はここに顕在化させた。それは『新可笑記』にも引き継がれ、綸旨を猿に奪われるという失態を犯した同僚に同情する下級武士と、自分の責任問題に累が及ぶことを恐れて保身に走り、世間体ばかり気にする上級武士を「大身は世のきゝをはゞかり、小身はぞんしながらさしづなりがたし」(巻一の三「木末に驚く猿の執心」)と書き分けたのだ(▼注15)。
 「表徴は裂け目」(R・バルト『表徴の帝国』)とされるが、非日常という裂け目から垣間見えるのは、どんなに口止めしてもすぐに噂が広がる物見高い当世と、多様で可変的な人の心なのである。
 「後家に成ぞこなひ」(『懐硯』巻二の二)も仮死といった「非日常」が普段は隠れて見えない人間の本性を、はしなくも暴き出す設定であるが、木越氏はこれが将棋仕立てで作られているという。
 なるほど、将棋用語を援用したタイトルなど仮説を補強する事例もあるし、見ようによっては駒が「位牌」に見えないこともない。だが、腹に一物ある女房や弟たちを「裏返った」とするのはどうであろうか。「成金」という言葉のごとく、将棋の場合その用語は専ら上昇的変異を意味するのだ。
 夫(甚九郎)が死んだと思い込み、髪を切る一方で自分の長持に掛硯などの横領物を秘匿していた妻。一見それは裏切りと思えるが、「老母に不孝」といとも簡単に女房を離縁するマザコン男(同・巻四の二「憂目を見する竹の世の中」(▼注16))が存在することを考えるなら、彼女なりに時間をかけた自衛策でもあったのである。
 ちなみに、舞台となった府中(今、福井県武生市) は福井藩の支配下にあり、『懐硯』〔貞享四年(一六八七)三月序〕刊行時は未曽有の国難に直面していた。
 すなわち、前年(貞享三年) 閏三月、病弱を理由に福井藩主松平綱昌の領地四七万五二八二石が徳川綱吉の命令で没収され、養父昌親が二五万石に半減されて再封されるという事件が勃発(『福井県史』)。それに伴い、府中領も四万石から二万石に減少したのだ。
 いわゆる「貞享の大法」。当時の府中領主は本多長員(一八歳)であったが、人員整理や「切米減少の法」などで家臣たちは困窮したという(『武生市史』)。本話はまた、混乱の渦中にあった土地ならではの、ドタバタ劇だったのである。
      
 二○一二年の一月と五月、西鶴関係のテレビ番組が二つほど放映されたが、その一つを手がけた責任者と街で再会し、制作の裏話を聞く機会があった。彼が力説していたのは、「西鶴」の企画に対する局内の鈍い反応だった。三谷幸喜、小林恭二といった人物ですら、それまで『世間胸算用』を読んでいなかったという惨状から充分に予測できた状況とはいえ、ショックを禁じえなかった。
 もはや、西鶴神話が通用する時代ではないのだ。そうした危機をいち早く感知した谷脇理史先生は「西鶴を楽しむ」シリーズ(清文堂出版・二○○三年〜)などで、新たな布教活動を開始したが、その死によって中断の止むなきに到っている。
 こうした経緯を考えるなら、今わたしたちが「束になってかかる」アジェンダは、谷脇先生の遺志を継ぎ西鶴作品の迫力を多くのメディアに発信する一方で、高校、大学、カルチャー講座など、それぞれに与えられた舞台で胡桃の仮果を剝ぎ、硬い殻の奥に内蔵された発熱装置がもたらす熱を愚直に届け続けることではないだろうか。
 教室という最前線の「戦場」に集う受講生にとって、その伝道師が「西鶴専家」(これこそ何を意味しているのか分からない)であろうが専門外だろうが関係ないのである。過剰な専門意識ほど、無益なものはない。西鶴研究会のメンバーをみても、例外なく良き師、先達がいるが、それは必ずしも「西鶴専家」に限らないのである。
 とはいえ、木越氏があそこまで措辞を並べなくてはならなかったもどかしさや、西鶴研究の現状に対する不満も理解できないわけではない。厳密な学問的手続きに習熟した人ほど、「テキストの空白」に直面し当惑する。もちろん、その空所を他の形のピースが入らないほどまで狭めていく努力は不可欠だ。ただ完璧に埋めたつもりでも、その先には「ルビンの壺」という踏み絵が待ち受けているのである。
 また、一方では西鶴研究の分厚さゆえ、「先行研究を完璧に把握するのにはかなりの困難」という状況にあることも間違いない(今、『西鶴と浮世草子研究』一〜五号に掲載されたレファレンスを改定、増補してキーワード入りの新刊本が企図されているが、それでも完璧に把握できるわけではない)。
 先行研究を見落としているのではないかという不安。それは常にあるし、プライオリティは尊重しなくてはいけない。しかし、単に典拠を指摘したのみのレポートでない限りは、先行研究の出現で総てが無価値になるわけでもない。
 というのは、西沢一風のごとくプレテクストを明かして(たとえば『御前義経記』目録や『風流今平家』挿絵部分の吹出)、〈やつし〉ぶりを誇示する例は別としても、何をもとに書いたかという広い意味での「情報源」はあくまで当人の手の内にあってそれが明かされることはほとんどないのだから、論証が不可欠なのだ。説得力を強めるために次々と繰り出される傍証と、展開されるロジック。プライオリティは失っても、テキストと真摯に向き合い呻吟し続けた軌跡と成果が失われることは決してないのである。
 今、必要なのは良い意味での開き直りではないだろうか。大事なのは、「厳密な定義」「学術論文」などと身構えず、受講生を驚かせ、沈黙させ、立ちすくませる力を持つ「胡桃(テキスト)」を探し続け、それを今回のごとく果敢にぶつけて行くことなのだ。発熱する「胡桃」は、まだいくらでもある。
 木越氏が、鬼の腕と見た「西鶴の読解の壁」。だが、腕の正体は二王のそれどころか、わたしの仮説のように軽い、隙だらけのはりぼてであるという思いはどこまで伝わっただろうか。それは、教室の熱をエネルギー源とすれば、フル・スロットルで走り抜け、何度でも付き抜けることが可能な蜃気楼のような壁なのである。

▼注1 木越俊介「西鶴に束になってかかるには」『日本文学』VOL61・二〇一二年一○月。
▼注2  塩村耕『古典文学レトリック事典』『国文学』一九九二年一二月増刊号
▼注3 木越氏が挙げた論文は、牧藍子「連句における「ぬけ」―談林俳諧を中心に―」『国語国文』二○一○年五月であったが、他にも牧氏には「発句の「ぬけ」『国語と国文学』二○○九年八月がある。
▼注4 拙稿「瞿麦の記号学」『江戸文学』23号・ぺりかん社・二○○一年六月。
▼注5 拙稿「〈色人〉の『好色二代男』」長谷川強編『近世文学俯瞰』汲古書院・一九九七年。
▼注6 拙稿「〈天下にさはり申し候句〉考」『西鶴文学の魅力』勉誠社・一九九七年。
▼注7 山本秀樹『江戸時代三都出版法大概―文学史・出版史のために―』岡山大学文学部研究叢書29・二〇一〇年。
▼注8 中村幸彦「「天下の町人」考」『西鶴研究』一号・一九四二年七月。
▼注9 浅野晃『国語国文学研究史大成・西鶴』三省堂・一九六四年。
▼注10 拙稿「西鶴の無意識〈矢数俳諧〉前夜」『青山語文』42号・二○一二年三月。
▼注11 拙稿「二つの笑い―『新可笑記』」と寓言」『国語と国文学』二○○八年六月。
▼注12 森山重雄『封建庶民文学の研究』三一書房・一九六○年。
▼注13 拙稿「引用の修辞学―切り裂き魔・西鶴―」『新視点による西鶴への誘い』清文堂出版・二○一一年。
▼注14 拙稿「午後の『懐硯』」『武蔵野文学』43号・武蔵野書院・一九九五年一二月。
▼注15 拙稿・注11と同。
▼注16 拙稿・注13と同。