「どう読むか」の問題提起として ― 武家物祭観戦記2 ―(大久保順子)

 浜田泰彦氏の「『武家義理物語』をどう読むか」要旨は、巻二の一・二の二の「御堂筋の敵討」を(否定的主題ではない)「武士の本意」の話として読む、という方向を示唆していました。そもそも『武家義理物語』のこの敵討話は『武道伝来記』の敵討話とどう違うのか、武家物の各作品の方法的な違いを立証できる要点が示されるのか、等の興味と期待とともに司会担当に臨んだ次第です。論拠の一つ、過度に「悪役」に脚色されていない嶋川太兵衛像は、後続の作品との比較の点で確認されました。

 ただし質疑応答の時にも指摘され、自分も気になった点は、論拠としての「推参」「慮外」等の用例の用い方です。実右衛門の喧嘩の場の瞬間的認知と判断「慮外といはれては断りも申されず」の下りが、当時一般の"武士としてあるまじき"態度を示す言葉への対応ととれるのか。諸本で表記に揺れのある『甲陽軍鑑』等の先行作品例も含め、その「書かれた」文脈での用例の使い方――発話者や対象者が誰か、また地文であれば書き手(主体)の位置や意図等の、吟味が問われます。引用の一覧に(相手への罵倒以外に)主体が自身を卑下する場合の用例が併存していたことは、やや説得力を弱めていたかもしれません。

 近年『新編西鶴全集』索引編の利用など、以前より作品の用例を抽出しやすくなった感はありますが、ある用例が当時総じてそのニュアンスであったという根拠、仮にその場合、西鶴作品での個々の用例のニュアンスはそれらと「同じ」なのか、また「違う」部分はどう見分けるのか。機械的な数量処理の結果だけからは見えにくいもの、文脈の中の語句の配置や、デジタルな点の部分に限らない文章の線の流れや面の感触も、「読み」に求められているものと感じます。

 浜田氏の指摘の「敵と討ち手の、双方の傷ついた名誉を回復する」といった意味を読むには、「慮外」の他の要素も総合して本文を見る必要を感じました。ニュアンスについて「大坂で届けたことで正式の敵討となったので、私闘ではないことを前提とすべきでは」(広嶋進氏)や、「口論はやはり口論であり、藩士と余所者との感情的こじれもあるのでは」(森田雅也氏)等、多くの指摘も寄せられました。「老練の大家」だけが可能な読みということでは決してなく、様々に考察されるべき敵討話の「読み」の問題を提起した発表だったと思います。

※注○武家物祭=第40回・西鶴研究会、です。