研究会の感想(森田雅也)

今回の武家物祭?の企画、秀逸でした。仲氏の『新可笑記』からの武士の救済論、浜田氏の『武家義理物語』を「推参」、「慮外」をキーワードにを読み解こうとする果敢な論、井上泰至氏の近世軍書から青砥説話を分析しようする重厚な論。いずれも染谷氏、石塚氏のコメントに尽くされていると存じます。

しかし、「武家物」とは何なのでしょうか。今回、司会役を任されたからでなく、私自身の西鶴論のデビューが武家物だけにずっと悩んできました。全国大学国語国文学会だったでしょうか、篠原進先生に司会をしていただき、発表後「どうして評価の低調な武家物から研究を思い立ったのですか」というような質問をしていただいた記憶があります。当時の私には答えられませんでした。今も武家物の世界について明確に出来ず煩悶している私ですが、ただ、その頃からずっと「武士」に対する一つの捉え方がありました。

「武士」とは「武家」「武道」という精神美を讃える前に当時の人々にとって、為政者の集団なのです。長剣を差すだけで示される公務員なのです。したがって、この「武士」の行動を見つめる眼は、江戸以外では、町人より農民の方がずっと熱いのです。都市より地方の方が注目しているのです。

もちろん、武家物は江戸の武士たちを読者として想定した読み物ではないかという意見はその通りだと思います。

しかし、西鶴を町人という枠から外し、為政者に苛まれる一人が武家物を創作したとして見れば、自ずから題材と距離が生じ、何か突き放した武士の愚かさへの冷たい視線を感じるのです。もちろん、それをして当世批判とは言いませんが、ある意味では、江戸時代に最も多い大衆、「百姓」の目に近いのではないでしょうか。

そうすると、武家物は特別な枠組みではなく、単なる武家や敵討ちを題材にしただけの諸国話にすぎないのか?
ここに第三のビールを示さねばならないのですが、今、考案中です。