研究会の感想(石塚修)

今回の研究会の懇親会で、染谷先生のお向かいに座りましたために、「なんか報告を書きなさい」とのご下命、「慮外ながら」感想めいたものをしたためますが、「推参」と思われたらご海容下さい。そもそも、この書き出しがおわかりにならない方は、研究会に参加されればよかったと歯ぎしりあそばすことでしょう。

さて、今回は、西鶴の武家物の発表が3本。豪華絢爛の西鶴武家物祭でした。後半はやや血祭りとの声も参会者から飛び出すほどの質疑のやりとりでございました。さぁ、そのあたりは知る人は知るぞかし。

一本目は、大阪大学の大学院生仲さんのご発表。質疑のとき、N先生は「沖さん」と間違って何度も名指しされ、直されたときに、「花粉症だ」とごまかされていましたが、あれは、先生の「そろそろ沖に釣りに行きたい」という深層心理の表出であることを小生は見抜いていましたぞ。それはさておき、仲さんのご発表は『新可笑記』一の四「生肝は妙薬のよし」をとりあげ、浄瑠璃作品と『本朝二十不孝』との比較から、この章のテーマの読みを深めていくという趣旨でした。

論証経緯は飛ばして、最終的には、だました武士が出家して救済される仏教説話として読むべきだという主張であったかと存じます。仏教説話として読むということには、たくさんのご意見が出てきていて、この手の話をすべからく仏教説話としてしまうと、西鶴はなんのために『新可笑記』を書いたのかということにも関わることにもなりかねませんので、各章の「読み」をかえることは大切ですが、作品全体のテーマ性との関連をも含めて問題にしないとならないとの感を強くいたしました。

ご発表を伺っていて、いかに主命であっても偽坊主になって殺人を犯して生き肝をとった武士が良心の呵責に耐えられずに、母親に告白して出家し、母親も改めてその話を聞いて仏道への心を深めたという話は、じつは、救済というならば母親が救済されたのではないかと考えました。

以前に三浦綾子のエッセイで、わが子を殺した殺人犯が出所したあと、被害者の母親を謝罪のために訪ねたところ、泊まっていくように言われ、なんと枕を並べて寝て、母親がその犯人を母親として抱きしめてあげるという話がありました。懺悔と許容、そこにこそ宗教の普遍があるのではないでしょうか。

この話ももし仏教説話として読むならば、そのように読める可能性も感じました。

研究会の感想(石塚修)その2、につづく