新旧の酒、取り交ぜて新しい革袋に(染谷智幸)

先週木曜日、西鶴研究会が盛会のうちに無事終了いたしました。
今回はご発表が3本、どれも力の入った充実した発表だったと思います。

ご発表についてのレポートについては、何人かの方にお願いいたしましたので、近々このブログに上がって来るかと思いますが、もちろん、それを待つ必要はありませんので、どなたでもご感想なりご批判なりをお寄せください(染谷までメールでお送りください)。

(と書いている最中に、石塚さんからご投稿がありました。感謝。)

今回は「武家物祭り」の体になりまして、私としては、つくづく時代を感じました。西鶴研究を続けていると分かりますが、武家物というのはなかなかに取っつきにくいものなのです。その理由は様々ですが、やはり好色物・町人物で浮かび上がってくる西鶴像を、武家物に結び付けにくいというのがあると思います。好色物や町人物では、比較的したたかで表現本位の作者精神というものが浮かび上がりますが、それをそのまま武家物にスライドさせられないところがあります。

逆に言えば、西鶴とは何かは、武家物を理解してこそ分かるものである、とも言えます。そうした意味で言えば、今回の武家物祭りは、その西鶴研究の問題と、昨今の武士・いくさと文学研究の深まりが啐啄するという、当に時宜にかなったものだったと思います。

特に、今回3本目にご発表された井上泰至さんは、昨今近世軍書や武家説話の研究を集中的に展開して居られ、そうした外濠を埋めて(浜田啓介氏『上方文藝研究』第11号)の大坂夏の陣であったわけで、様々に興味深いものでした。

図らずも岩波『文学』(3・4月号)にて「いくさと文学」の特集があり、井上さんと佐伯真一さんの対談、鈴木彰さん等若手の活きの良い論文、昨今金時徳氏の発見された『新刊東国通鑑』報告などの好企画が目白押しです。

私は、二年前に佐伯さん井上さんとご一緒に韓国へ行った際、お二人の会話を横で聞いていて、新しい時代の到来を感じたことがありました。その時のことはリポート笠間55号に書いた「十五~十七世紀、室町―上方文学論は可能か」でも触れましたし、またこうした題で文章を書こうと思った切っ掛けにもなったことですが、地殻変動は確実に始まっていて、今回、風雲急を告げる西鶴城を、直下から揺るがす事態になったというわけです。

いずれにせよ、もう中世も近世もありませんし、西鶴を近世や文学(旧態の謂)の枠内で捉えて行くことも無理でしょう。作品・作者をその時代の中で捉えるなら、それはその時代のあらゆる文物との関係の中に作品・作者を解体し、さらには「その時代」という枠組みも解体しつつ、国や国語の枠をも解体しなければ出来ないはずです。中途半端はそれこそ近代やその文学観の残滓です。

ちなみに、この岩波『文学』に載る座談会「「聖なることば」が結ぶ世界」(ジャン=ノエル・ロベール、ハルオ・シラネ、小峯和明)は必読です。日本はもちろん、東アジアやさらにはアジアへ目を向けた時、仏教の存在が大きいことに私は何度も驚かされましたが、その仏教の中でも『法華経』は極めて大きい存在です。

平岡聡著『法華経成立の新解釈-仏伝として法華経を読み解く』(大蔵出版、2012年)から、改めて『法華経』の勉強をしなおしましたが、この経典の悉皆成仏(一仏乗)と日本神道のシンクロには日本とは何かを考える上で極めて重要なものが潜んでいるように感じているところです。

西鶴と『法華経』。これも西鶴-日演-遊女吉野というラインで、西鶴に深く絡みます。いずれ論じてみたいと思っています。