研究会の感想(石塚修)その3

武家物祭の第三段目は真打ち登場といったところでした。

井上泰至先生は、いまや近世文学のみならず近代俳句の分野でも精力的に活動をされています。Facebook仲間のみなさまはわたくしもふくめてご承知でしょうが、その最近のお仕事ぶりはまさに超人的な感じです。江戸時代でしたら、あらゆることをテキパキと裁いていく老中筆頭のごときお働きぶりとなりますでしょうか。小普請組大好き人間のわたくしとしてはただただ敬服いたすばかりであります。

こちらのフログでも前哨戦がありましたが、井上先生はお得意の軍書なかから西鶴の分野でももっと軍書の利用が話題にされてもよいのではないかという問題提起をもってのご発表でした。

ただし、そこには、事前にも話題になっているとおり、「西鶴は軍書を読んだか」、または「西鶴の読者は軍書をそれなりに読んでいたのか」という根本的な課題が課せられてしまいます。井上先生の定義では、軍書は司馬遼太郎的な「読み物」でもあったということですが、そこの普遍化は、研究会の雰囲気ではまだ常識化されていないという印象を参加のみなさんの質疑からは受けました。

さきの二つの問いかけは、図らずも、わたくしが茶の湯と西鶴を論じるに際してもあったことですので、そうした問題提起を普遍化していくことの困難さは他人ごとではなく身にしみて受け取りました。

今回は、『武家義理物語』巻一の一「我が物ゆへに裸川」における青砥藤綱説話について軍書の生成と関連付けてのご発表でした。青砥の伝承は巷間では「太平記」を通してよくしられています(わたしはなぜ修身を履修した世代の母親から子供のころに聞かされました)が、じつは、「太平記」には藤綱の名前はないことから、「北条九代記」や「新鎌倉志」なども視野にいれた探求の必要性を提案され、ひいてはそこに、西鶴の政道への批判や
風刺もこめられている可能性があるとの結論でした。

西鶴の武家物祭のレポートもこれにて、キリでございます。