三月二十四日の研究会寸感(染谷智幸)

みなさま、24日の研究会はご苦労様でした。
服部早苗さんの俳句に「口といふ口の鳴りだす春嵐」というのがありますが、そんな感じだったでしょうか(笑。もちろん服部さんの「口」は人間ではありませんが)。とにかく色々な意味で盛り上がりました。恐らく、西鶴研究会史上、記憶に残る一回になったと思います。

まず南陽子氏のご発表、有働裕氏も司会の席から述べて居られた通り、刺激的で面白かったと思います。南氏と石塚修氏の応酬はもちろんのこと、新大系本にして8行あまりの「栄耀献立」の解釈に、30人を越える研究者が、何と2時間以上を費やして議論をしたのですから。全国の日本文学を勉強する大学生に見せてあげたかった。文学研究というのはここまでやるんだぞと(笑)。

この2時間の内容についてはここで纏めきれませんので、何人かの方に感想・批評をお願いいたしました。そのうちにこのブログに載ると思いますので参照いただきたいと思います。ただ、南氏がご発表されるについての経緯を簡単にお話しておきますと、2013年1月の『近世文藝』(97号)に南氏の「『万の文反古』巻一の四における書簡と話」と題する論文が載りまして、巻一の四に対する新解釈が提示されました。そこでは従来から栄耀と考えられていた献立が栄耀でないばかりか、粗食とも言うべき一汁三菜の茶懐石であり、その逆説的な意味とは何かが主に考察されました。それに対して2014年同誌100号において、石塚修氏が「『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」再考」と題された論文を発表され、特に南氏の、本短編の献立が茶懐石であるという指摘に反論し、茶懐石なら茶道具が用意されて茶会が行われたはすだが、その様子がないのは何故かと指摘されました。今回の南氏のご発表は、新たな資料を駆使して、石塚氏の反論に反論、石塚氏も質問で今回の南氏発表にさらに反論されたわけです。

私の雑駁な感想としては、南氏の献立=茶懐石説は、石塚氏の茶会が行われた形跡がないという指摘を乗り越えねばならず、やはり少し無理があるだろうと思いました。しかし、この献立=茶懐石説が成り立たないとしても、南氏の指摘された栄耀の逆説性という問題は生きているというか、むしろ茶懐石でなく本膳料理の方が、さらにこの逆説性は増すことになるのではないでしょうか。豪華な本膳料理だったはずが、茶懐石並みに削られて、挙句は料理とは関係のない湯殿まで用意させられたという、散々な栄耀献立になったわけですから。南氏のご論文を再読すると、中心論点が茶懐石云々よりも、むしろそこにあったことが分かります。たとえば7ページ下段の「二、「無用に候」の意味するもの」では献立以外にも様々なものが「無用」とされて、接待に気遣いすればするほど、旦那と呉服屋の距離は遠くなる。この逆説の意味を問題にされていたわけです。こうした作品構造から、改めて論を再構築されたら良いのではないかと思った次第です。

ちなみに、この湯殿はさっぱりと汗を流して涼むという意味の他に、芝居の太夫元へ行くための身繕いという意味もあったように思います。というのは、この湯殿の幕に踊り桐の定紋が描かれています。この定紋は恐らく澤村小伝次のものでしょう。『男色大鑑』巻八の四「小山の関守」の挿絵に小伝次が描かれ全く同じ定紋が描かれています。この栄耀献立の短編に登場する「旦那」は手代の手紙からすれば、呉服屋の接待などそっちのけで夜の芝居通いに熱中していることは明白です。しかも気に入った役者が居る。この短い手紙に、勝手に役者を用意するな、「夜の仕立」(芝居小屋などへの予約)は無用と二度のダメ出しが出ていますから、よほど小伝次かその周辺の役者を気に入って居たのでしょう。また、目録の副題にも「「舟あそびに野郎見せばや難波風」と出て来ます。なお澤村小伝次は、その『男色大鑑』の記述によれば、西鶴と一緒に河内藤井寺に参詣したのですが、その席には西鶴が贔屓する上村辰哉も居りました。また、『古今役者大全』巻五、十五丁(寛延三年[1750]、八文字屋八左衛門)によればこの折西鶴は、小伝次が駕籠で気分が悪くなったのを血の道と表現したことを、女形の心構えとして立派であると評価したと伝わります。すなわち、小伝次は西鶴と極めて近しい関係の役者だったわけです。もしこの推測が正しいとすれば、栄耀献立に登場する長崎屋の旦那のことを西鶴がよく知っていた可能性も出て来ます。

推測に推測を重ねることはあまりよろしくありませんが、広嶋進氏(「文反古の暗示」『西鶴探究』2004年、ぺりかん社)も言われるように『万の文反古』は暗示的な描写が多いのが特徴です。それでもう一つだけ推測を逞しくしてみたいことがあります。それは今回の発表の折にフロアーの何人かの方からもご指摘がありましたが、この栄耀献立に出て来る手代(八右衛門)と旦那とのズレについてです。この手紙の書き主は長崎屋の手代八右衛門で、彼は主人(旦那)の代弁をしているわけですが、旦那が接待に関心を持たないのを良いことにして、自分への賄賂を要求しています。その一つが「日外(いつぞや)の生加賀のひとへ羽織」であるわけですが、賄賂の要求がこれからエスカレートしてゆくのは間違いないでしょう。例えば、これだけ細かい献立その他の指示を出したにも関わらず、十八日には「内談」を予定しているからです。また手紙の最後には「心事、貴面に申あぐべく候」と擱筆の常套句ながら、内談について念を押す始末です。このエスカレートの先には何が待っているのでしょうか。

手代や番頭と言うとNHKの朝ドラの加野屋の番頭たちのように、店や主人思いの実直な人達を連想しますが、元禄期以前の手代たちと主人との関係はかなり殺伐としたものだったと言われます。歴史学者の中井信彦氏はその関係を「利害の二字につき」るとまで言っています(『町人』小学館)。西鶴も『日本永代蔵』の巻一の三「浪風静に神通丸」で寛文~貞享期の手代たちが主人の金を勝手に使い込み(取り逃げ、引負い)をし、破綻する人間が「かぎりなし」と言っています。つまり元禄期までの手代たちは主人の信用を得て別家する暖簾分けの方法ではなく、自分で資金を集め(主人に分からないように自分で商売を展開し、その儲けを懐に入れ)独立をめざしたと言うことです。ただし、これは相当上手くやらないといけません。焦げ付きを出せば、主人のみならず、親や請人(身元引受人)に面倒が及びます。こうなれば元も子もありません。ここを失敗する人間が当時多かったと西鶴は先の『永代蔵』巻一の三で言っているわけです。

ただ、八右衛門が独立まで考えていたかどうか、定かなことは分かりません。それらしき素振りは一切見えませんから。しかし旦那が長崎商いで金儲けをし、その金を目当てに近寄ってきたのが呉服屋というのがどうも意味深です。呉服商と言えば三井家が象徴的ですが、西鶴が「小ざかしき人の仕出し」(『永代蔵』巻一の四)と言った意匠改良等によって元禄前後から呉服商売は景気が良くなります。それに対して長崎商いは、元禄の前までの投機ブームによって世を席捲しますが、『町人考見録』に示されるように元禄期以後多くが没落していきます。この新旧交代劇がこの手紙に投影されているわけです。

それに、長崎屋の旦那は遊び呆けていますから、資金があっても追っ付け帳尻が合わなくなるはずです。病後でさえ毎日の遊楽ですから、元気になったら大変です(笑)。八右衛門は、主人の勘所を全て押さえているばかりか、恐らく、帳合(帳簿)も彼が抑え込んでいることでしょう。とすれば後はタイミングということになります。

何か最後は、安っぽいミステリー風経済小説を読むようになってしまいましたが、いつも言われるように、西鶴は想像力を羽ばたかせる材料が不思議と散りばめられていて、読む者を引きこみます。この栄耀献立の短編もまさにそうした名篇の一つだと言えます。

なお、後半の畑中千晶氏「原素材の加工方法-『花実御伽硯』と『諸州奇事談』の差異-」はご発表の前半、懇親会等の連絡、会計の計算などでゆっくり拝聴出来ませんでした。とくに懇親会の場所と何故か連絡が取れず、『文反古』の呉服屋のようにやきもきしておりました。ちなみに西鶴研の懇親会はいつも飲み放題の最低コースで、削らずとも最初からの栄耀献立です(笑)。それはともかく、質疑応答の様子からすれば、畑中さんのご発表も、大変面白かったようですが、このご報告については、後ほど他の方がまとめて下さると思いますので、それに譲りたいと思います。

24日の西鶴研について、参加された方もそうでない方も、ご意見ご感想をぜひお寄せくださればと思います。

コメント

南です。
先日はジェントルな先生方が制止してくださったおかげで、血を見ずにすんでよかったです(^^)

反論の反論の反論の反論は近日中にまとめられたらと思っております。
「焦っても良い論文は書けない、しかし焦らなければ論文は書けない」
この十年で悟りました。気長に待って頂けると助かります。

染谷先生にご指摘頂いた点について、少しだけ。
そうなんです、私はそもそも「茶懐石か否か」にはこだわってないんです、
献立部分だけでなく、話全体の流れを踏まえて読まないと、作品を読んだことにはならないじゃないですか、
鈴木先生は、「大汁」しか見てないでしょー!?・・と、言ってるつもりなんです。
(鈴木先生、ご覧になってたらゴメンナサイ。そこらの文学読みの私見ですので)

挿絵の定紋の件は全く考え付きませんでした。ご指摘ありがとうございます。
西鶴作品は、いくらでも考察を深める余地がある。不思議ですね。
他の仮名草子や浮世草子とは、やっぱり何かが違う。
いつか考察したいと思っています。
気長に待って頂けると助かります。

長文失礼しました。