第四十二回西鶴研究会のプログラムが決まりました(染谷智幸)

次回の西鶴研究会のプログラムです。
今回は南さんと畑中さんのご発表です。
南さんのご発表は近世文藝(近世文学会)の誌上で石塚修氏とやりとりがあったもの。今回はその石塚さんのご論文を踏まえての新たな展開のご様子。楽しみです。
畑中さんのご発表は新発見の資料から浮世草子の読みについての新見のご提示。これも楽しみです。
なお、大阪から飯倉洋一氏も参席されるご様子、一石を投じてくださるでしょう。
http://bokyakusanjin.seesaa.net/
奮ってご参加ください。

日時    3月24日(木) 午後2時より6時まで
場所    青山学院大学 総合研究ビル9階、第16会議室
内容    研究発表、並びに質疑応答、討議

発表題目および要旨
◆ 西鶴を「読む」ということ 
― 再考『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」―
 南 陽子


 『万の文反古』巻一の四「来る十九日の栄耀献立」は、主に料理文化史研究の観点から論じられてきた。その代表的なものは、テキスト上に書かれた品目を十九日に出される饗応の一部と考え、本膳料理に倣って膳数と品目を補いながら読むという、鈴木晋一氏の提示した方法である(鈴木晋一『たべもの史話』平凡社、一九八九、初出一九八七)。
 この鈴木説に対し、西鶴研究者はおおむね賛意を示した。広嶋進氏は鈴木説の献立に修正を加えて、これを西鶴の「暗示の方法」の一つに数え(『西鶴探求』第六章「『文反古』の暗示」ぺりかん社、二〇〇四、初出一九九〇)、また『新編日本古典文学全集』(小学館、一九九六)の注釈では、旧版『完訳 日本の古典』(小学館、一九八四)注釈を改め、鈴木説を採用している。
 先般、発表者は「『文反古』巻一の四における書簡と話―「無用に候」の意味するもの―」(『近世文藝』97、二〇一三年一月)において、巻一の四の献立はテキストが記述するとおりの「一汁三菜」のまま理解することが可能であり、テキストに省略された品目はないという旨を、茶懐石の理念を援用しながら提示した。さらに書簡中で旦那側が「無用に候」と、献立を含む呉服屋の提案を次々に却下していく理由を、当時の商売の常識を考慮して検証し、従来とは異なる解釈を加えた。
 この拙論に対し、石塚修氏は「『文反古』巻一の四再考―献立のどこが「栄耀」なのか―」(『近世文藝』100、二〇一四年七月)において、拙論の考証が茶事の細則に合致しないとして「一汁三菜」説を否定し、自身は鈴木説に準じたうえで、当時の読者は真夏の船上では様々な点で実現困難である「栄耀」な献立を、驚嘆と笑いをもって読んだのだと結論した。
 拙論の注においても明記したが、茶事のルールがようやく定型化するのは、茶の湯の大衆化が極まった幕末の頃とされている。その一因には、茶事が規範化されると作法を表面的になぞるだけの形式主義に陥り、本来の目的である「もてなしの心」が失われるという、利休初期の理念が尊重されていたことが挙げられる。不定形のルールをめぐって反証に反証、さらにまた反証を重ねるのは、研究として有意義な行為ではない。
 本発表では、巻一の四を読むとき「何が」最も大きな問題であったのかを確認し、石塚説と拙論を対比して石塚説の妥当性を検討したのち、献立の考証とは異なる観点から巻一の四をさらに詳細に考察していくことを目標とする。西鶴作品を「読む」とはどのような行為なのか、考証のための考証ではなく、作品を「読む」ための考証を目指して、建設的な議論の場にしたいと考えている。
 
◆ 原素材の加工方法
― 『花実御伽硯』と『諸州奇事談』の差異 ―
敬愛大学 畑中千晶


 かつて「「西鶴らしさ」を問う」という拙文(拙著序文)で次のような考えを提出しことがある。素材として「多様な言説」(=つまり他者の記した文章)が取り込まれていたとしても、最終的に仕上がった作品に「西鶴らしさ」が感じられるとするなら、そうした加工技術にこそ「西鶴らしさ」を求めるべきではないかというものである。今、「西鶴らしさ」の議論は、しばし措く。本発表では、西鶴を論ずるための「補助線」を目指し、原素材の加工方法について、他の浮世草子の例を参照したい。
 中心的に扱う題材は、浮世草子『花実御伽硯』(明和五年刊)である。このたび、本作の粉本を新たに発見したことに伴い、作品化の過程を詳細に把握することが可能になった。その粉本とは、写本の怪談集『続向燈吐話』(国文学研究資料館三井文庫旧蔵資料)である。この『続向燈吐話』は、『向燈賭話』とともに、静観房好阿『諸州奇事談』(寛延三年刊)の粉本となっている。
 『花実御伽硯』は単純素朴な奇談集とも言うべきもので、行文は変化に乏しく、時に冗長である。対する『諸州奇事談』は、改題出版の繰り返された人気作となっている。全くの同一素材を加工した話を含みながら、一方が退屈極まりない作となり、他方が読者を魅了してやまないとするなら、その差異は極めて重要である。
 無駄のない筆運びが生み出すリズム、巧みな演出、素材の入れ替えなど、静観房が駆使したテクニックの数々は、『花実御伽硯』と対比させることで一層際立つ。本発表では、原素材の加工方法の差が、作品の仕上がりにいかなる差異をもたらすのか、その過程を追いかけていく。