「ルビンの壺」は顔でも壺でもない――篠原進さんの批判に接して(井上泰至)

 書くこととは、〈賭け〉ることです。篠原さんの論文を読んで、最初にこのことが浮かびました。書いた当人が予想もしなかった受け取り方も当然生まれます。しかし、そのことも含めて、書いた人間は責任を負わなければならないでしょう。さて、私の〈賭け〉は、勝ちか、負けか、はたまた引き分けなのか、投了なのか。それは当事者以外の判断にゆだねるべきでしょう。

 この文章は、篠原論文への正面からの応答ではありません。それは本来、私の論文に向けられた疑問の、根拠となる部分について、きちんとした答えを用意して、正式な論文の形で行われるべきものです。

 今ここでは、HPにアップするというスピーディな対応を取られた篠原さんにお応えすべく、あえて拙速を尊び、批判論文を読んで感じた私なりの問題意識を書きつけておくことで、期せずして武家物特集の様相を呈した、来る西鶴研究会の建設的な議論につなげたいと思います。「篠原さん」と呼ばせて頂いているのもそういう理由からです。

 そもそも私の論文の標的は、三つありました。これは西鶴研究会の折にもはっきり申し上げたし、論文の副題にも挙げていますが、まずは中村幸彦氏の「武道」解釈です。私の近著『近世刊行軍書論』自体が、氏の小学館古典文学全集(「英草紙」などの入った巻)の月報にあった軍書についての見方から出発しているくらいで、氏の研究は仰ぎ見る指針なのですが、西鶴の「武道」を、時代がずれる貝原益軒の『武訓』などを引いて、人倫全体に一般化して解釈してゆくのには異論がありました。

 そして、この中村氏の解釈は、篠原さんも今回の論文で認めているように、その後きちんと受け止められず、私には「なんとなく」批判もされず、通用しているように見えたのです。「武道」という言葉の来歴を洗えば、そのような見方にならないことは、既に書きました。

 もちろん、篠原さんが今回問題にしているように、私の論文では、西鶴の「武道」の用例を全部挙げず、『武道伝来記』の用例のみ、それも自明と思えるものは措いて検討しただけです。篠原さんが私の論に納得いかないのは、一つはそこにあったことはよく理解できます。「武道」を「武士」と解釈する立場も含め、今回篠原さんが疑問の根拠とされた諸用例について私なりの考えはありますが、そこは機会を改めて意見を述べたいと思います。今は、冗長を嫌うあまり、用例の検討を徹底して挙げなかったことを反省するばかりです。

 二つ目の標的は、西鶴本の読者と軍書の読者は違う、とする「常識」です。これについては、単行本にこの論文を入れる際、補記の形で、甲州下井尻村の郷士が双方を熱心に読んで抜き書きしている例(横田冬彦「「牢人百姓」依田長安の読書」「一橋論叢」一三四参照)や、『葉隠』に『男色大鑑』からの引用があることなどを指摘しておきました。拙論初出時、中野三敏先生からも、「大名蔵書に好色物・町人物はない、まず武家物だ」と賛意を表して頂いたのですが、これは私も軍書調査で得た実感です。

 今回の篠原さんの論文には、双方の読者が違うと思うとは書いてあるが、その具体的根拠も、私の挙げた根拠への批判もありません。西鶴本と、堅い長大な軍書とでは読者が違うと考えたくなる気持ちもわからないではないです。しかし、だからこそ「武道」は焦点化してこなかったのではないでしょうか?『近世刊行軍書論』の全体を読んでいただければ、寛文・延宝期以降の軍書は娯楽性も濃くなり、当然読者層が拡がったことはご理解いただけるはずですし、その前の時代に出た堅い『甲陽軍鑑』すらが、元禄には小本として、軍談中心の編集がなされ、娯楽読み物化していること、さらには『武道伝来記』の翌月に出された『諸国敵討(武道一覧)』の多くが『甲陽軍鑑』を引用している事実は、当の批判されている私の論文に書いたことですが、これには批判も言及もありません。これ以上の議論は平行線となりますが、少なくとも、私の提示したこれら数々の根拠への問題点を示すか、あえて私とは違うご意見を下される根拠を示して頂くことを切に願うものです。

 さて、三番目の標的は、『武道伝来記』を「敵討」の方面から論じてきた傾向です(もちろんこれが全てだとは言いません。「主に」と書きましたが、この傾向が論の「主流」であるか否かについては、改めてきちんと整理し直しましょう)。角書にある「敵討」は趣向に過ぎず、「武道」こそが、一度正面から論じられるべきなのは、この作品がまともな敵討ちが必ずしも描かれていないことで従来から議論になってきたことや、その書名から見ても当然のことに思えましたが、そういう論文が皆無だったことが私には驚きでした。そういう傾向の背後には、西鶴と「武道」のような勇ましい言葉は、結びつくはずがない、というバイアスすらあるのではないかという疑問から私の研究は始まったわけです。

 私の論文に対して、西鶴研究会の発表以来受けた感触では、一番点数の辛い篠原さん(発表時、「今回だけは許す!」とおっしゃったのには面喰いました)すら、「武道」という言葉を正面に据えて考えることは一旦認めた上で、「勇武の意味の「武道」」の裏に蓄光されたそれ」に焦点を当てて論じられた今回の篠原さんの「姿勢」には、「我が意を得たり、蛮勇を振るって西鶴を論じてよかった」と心から喜んでいます。篠原さんも、当代の武家への皮肉な視線を読み取る、私の立場には賛成して頂いています。もちろん私と篠原さんの立場の違いはあって、それは西鶴が勇武の「武道」に本気で与していたかという点であることも、先の「武道」の用例の検討から明らかです。

 篠原さんがよく言及される、ルビンの壺は、顔なのか壺なのか、それも大事ですが、表裏一体の形そのもの(=武道)が前景化したことが、今回の応酬での一番の成果ではなかったかと勝手に自画自賛しています。私は、西鶴は顔も壺もありの人だと狙いをつけていますし、今度の西鶴研ではそういう発表をする積りです。また、胸をお借りできれば幸いです。