第28回・西鶴研究会(2009年3月26日(木)午後2時~6時、青山学院大学 総合研究ビルディング 10階 第18会議室)

◇好色男たちの絆――ジェンダー理論から照射する『一代男』論
早稲田大学(院) 
大石あずさ

 『好色一代男』はこれまで、「男と女」の物語、もしくは「女を欲望する男」の物語だと いうことを前提に論じられてきた。しかし、異性愛における同性同士の連帯――「ホモソーシャル関係」という概念を導入して『一代男』を読み直すと、①世之 介たち好色男にとって親密であるはずの女たちが怪異や評価の対象して描かれ、つねに男同士の輪から疎外される異質な存在として立ち現れてくること、②女色 よりも男色が評価されていることの二点から、『一代男』において重要視されるのは、男女間の異性同士の結びつきではなく、男性間の同性同士の結びつきなの だといえるのではないか。それは男色的な同性間の結びつきとは異なる。精神的な親和は男を指向するが、肉体的な親和に女を指向するからである。たとえば、 世之介がともに郭に赴く夢山や善吉との間に性愛関係をもつとは考えがたい。
 そして、肉体的親和には女を指向するということも、女が男たちの間で価値をもつ存在であるからにほかならない。巻六の二「身は火にくば るとも」で世之介が夕霧を欲望するくだりなどは、その一例である。好色男たちの「品定め」を聞くことによって、世之介は夕霧を欲望するようになるのであ る。欲望の基盤にあるものは、男同士の間の絆なのだ。
 『一代男』は「男と女」の物語ではなく、「男たち」の物語であると読める可能性を探ってみたい。

◇『新可笑記』巻一の一「理非の命勝負」における笑い
長野県短期大学  
平林香織

 従来、版下の不備や、武家物としての統一感の薄さ、あるいは表現の拙さなどが指摘され、そのことから、全体として低調な作品であると評 されてきた『新可笑記』であるが、近年その評価が塗り替えられつつある。しかし論者によって評価の観点はさまざまであり、また、各話の主題の読み取りも異 なっている。発表者もまた、『新可笑記』は決して低調な作品などではないと考える。『武道伝来記』『武家義理物語』の二作品で武士のさまざまなありように ついて描いてきた挙句に、武士の現実を忠実に写し取ろうとした西鶴のすぐれた表現力を読み取ることができると感じている。そのことを説明しようとすると、 結局、諸氏の論に対して屋上屋を架すこととなるかもしれない......。
 『新可笑記』は、言われているような武士道批判でも武士道称揚でもなく、ただあるがま まの武士の現実というものを描こうとした作品ではないか。なぜなら、序文で西鶴が「笑はるる合点」という前提で作品を作り上げたと宣言しているからであ る。笑うしかない武士の現実を描いた作品であるとするならば、その笑いの質とはどのようなものなのか、また、はたして各話に笑いはあるのかないのか、とい うことが重要なポイントとなる。以上のような問題意識をもって、巻一の一「理非の命勝負」を考えてみたい。 
 本話には「人相見」というユニークな人物が登場するが、彼こそが本話読解の鍵を握ると 考えられる。古典文学に登場する様々な観相のモチーフを辿ると、そこにある種の笑いの要素があることがわかる。そのことを踏まえて、西鶴が冒頭の一話に人 相見を登場させつつ武士を描いたことの意味をも探ることで、『新可笑記』の笑いの地平について考察する。

(染谷記)

○司会は前回発表者の予定です