32回再・西鶴研究会(2011年8月5日(金) 午後2時~6時、青山学院大学 5号館517教室)

◇『好色五人女』巻二「情を入し樽屋物かたり」における「ぬけ参り」
皇学館大学  速水香織

『好色五人女』(貞享三年二月)は、実際に起こった男女の事件を題材にした作品でありながら、内容の大部分は作者西鶴の創作であるため、その執筆意図や方法について従来様々な評価がなされ、論議が展開されてきた。

その中で、巻二「情を入し樽屋物かたり」は、貞享二年正月に西鶴の地元大坂で起こった事件を題材とし、生活に密着した年中行事等に関する描写が多いため、作中で「もっとも風俗小説的になった」(江本裕氏 講談社学術文庫『好色五人女』解説)とも評される。本発表では、この巻二に見られる趣向の内、物語の中盤におかれる「抜け参り」に着目し、この趣向が作品にもたらす効果について考察する。近世以前から貞享期にかけて、様々な作品に見られる「伊勢参宮」の逸話には、「大神宮の霊験により、それまでの生き方に係わらず、厚い信心を以て参れば必ず利生がある。逆に、よこしまな心で参詣した者には、厳しい神罰が下る」という共通した展開が見られる。本話においてもこの展開は踏襲されており、おせんもまた、「よこしまな心で抜け参りした結果破滅している」ことに注意すべきであろう。そして、「抜け参り」という要素に注目する時、本話の冒頭から物語を動かす役目を負う夫婦池のこさんの重要性があらためて浮かび上がってくる。主人公おせんの抜け参りと破滅は、こさんによって準備され、誘われたと読む事が出来る。

◇西鶴の作為と方法――「大晦はあはぬ算用」と「照を取昼舟の中」をめぐって
北星学園大学 宮澤 照恵

『西鶴諸国はなし』巻一「大晦はあはぬ算用」および『懐硯』巻一「照を取昼舟の中」を取り上げ、西鶴の作為とフィクション化の方法を探ってみたい。

前者は、章末におかれた「武士のつきあひ格別ぞかし」や目録小見出しの「義理」をめぐって、解釈が分かれている作品である。本発表では、「金」を軸として咄が組み立てられていることを出発点とし、やや時代が下る「盗人説話」を提示することによって西鶴の作為を考える糸口としたい。併せて、狭い範囲でしか通用しない仲間内のみの相互理解や賞賛、矜持などを浮き彫りにしてみせる手法を取りながら、同時に肯定的な評言や小見出しという枠組みを用意していることの意味に触れたい。両様の解釈を促すようなフィクション化の方法が、同時代にあってどのようなメッセージ性に繋がり得たのかを改めて考えてみたいと思う。

後者は、故郷大坂に錦を飾るつもりで乗合船に乗り込んだ男が、船上で博打に手を出して全財産を巻き上げられ一文無しになって北国に引き返す、という話である。西鶴は、40キロに亘る昼の下り舟という密室空間を用意し、風景を巧みに織り込んで実況中継さながらに話を展開させていく。元放蕩息子の成功譚の部分を含めて、冒頭の「人の身はつながぬ舟のごとし」に集約される内容と言えよう。そこに作為はないのか。発表者は、末尾にわざわざ博打の戒めを置いている点に、定めなき世を嘆くアフォリズムに終始させまいとする作為の一端を読み取りたい。そもそも博打では誰が一番得をしたのか。本発表では、人物設定に注目して作為とそれを包む西鶴の方法を指摘したい。

その他 司会は前回発表者の予定です