コミカライズ版『男色大鑑』の解説を書いて(畑中千晶)

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コミカライズ版『男色大鑑』の解説を書いて


畑中千晶[敬愛大学]


▼敬愛大学教授。日本近世文学、比較文学。著書に『西鶴が語る江戸のダークサイド』(共著、ぺりかん社)、『西鶴諸国はなし』(共著、三弥井書店)、『鏡にうつった西鶴 翻訳から新たな読みへ』(おうふう、2009年)、染谷智幸/畑中千晶編『男色を描く 西鶴のBLコミカライズとアジアの〈性〉』(勉誠出版、2017年)、西鶴研究会編『気楽に江戸奇談!RE: STORY井原西鶴』(笠間書院、2018年)など。

『男色大鑑』のBL(ボーイズラブ)化
 今、BL界に『男色大鑑』の名が響き渡っている(BLとはボーイズラブのこと)。発端は、2016年5月14日発売のコミカライズ版『男色大鑑―武士編―』(株式会社KADOKAWA)である。翌月には『男色大鑑―歌舞伎若衆編―』も出て、さらに注目度が高まり、第三弾『男色大鑑―無惨編―』(9月15日発売)も出た。
 最初にお断りしておかなくてはならないのは、私はこの企画の監修者ではないということだ。あくまでも原作『男色大鑑』の解説を執筆する機会を編集部から頂いたに過ぎない。このたびのコミカライズ版『男色大鑑』の成功は、ひとえに編集者・斉藤由香里氏の企画力の巧みさとセンスの良さによるものである。
 この執筆依頼を頂いた際に、全くたじろがなかったかと言えば、多少の逡巡はあったということをやはり白状しなくてはならない。『男色大鑑』はBLなのか、という本質論はひとまず措くとしても、そもそもコミック自体に疎い人間が、その解説など書けるのだろうかという不安があったことは確かである。しかし、新たな読者のもとに西鶴の作品を届けたいという想いのほうがはるかに勝り、喜んでお引き受けすることとなった。

読者の反応
 『武士編』から『無惨編』まで、回を重ねるごとに不安は楽しさへと変わっていった。何より心強く感じたのが、読者がすぐそばに居るという感触が得られることである。これは、これまで記してきたどの原稿とも異なる感触で、極めて新鮮なものであった。刊行部数は毎回一万部とのこと、これだけの部数を持つ媒体にこれまで書いたことがないのだから、新鮮なのも当然かもしれない。読者の反応はダイレクトに、日々、ツイートやブログ、BL専門サイトの書き込み等でもたらされる。意外にも解説にまで言及してくれている読者が複数存在したのは、誠に有難いことであった。
 職業柄、学生たちに文章指導を行うことも多く、また1コマ90分、学生たちの集中力をいかに保ち続けるかということに日々腐心する身としては、「分かりやすい」と言ってもらうのが何よりの褒め言葉である。対象読者は大学生を念頭に置いて執筆したが、これも良かったようである。

女性目線で読む『男色大鑑』
 私自身が女性であるということも、この際、やはり無関係ではないだろう。BL読者の圧倒的多数が女性であることを考えれば、女性目線は外せない。男性目線で読む『男色大鑑』と、女性目線で読む『男色大鑑』とは、もしかすると少し異なっているのかもしれない。大塚ひかり氏は、西鶴の描く作品について、また、近世文芸の全般について、「女目線」が欠落していて「嫌なエロ」だと述べている(『本当はエロかった昔の日本 古典文学で知る性愛あふれる日本人』新潮社)。要するに、「ミソジニー(女性嫌悪)」が強いということであろう。これは、私が『男色大鑑』を読み始めた頃に、第一印象として受け取ったものにやや重なるものである。おそらく、初めて触れた際にはどうしてもこのように感ずるのではないだろうか。しかし、語られていることを額面通りには受け取ることができないと気づき始めたあたりから、俄然、『男色大鑑』を読むのが面白くなった。今回の解説では、まず、この面白ポイントをできるだけ披露することに力を注いだ。
 他方で、BLのディープなファンである男性研究者からは、「西鶴の『男色大鑑』は羊頭狗肉。タイトルに惹かれて読み始めると、全然エロくなくてガッカリだから」とのコメントが寄せられた。これは、あくまでも原作についての話(そして『男色大鑑』に手を出した読者の多くが抱く、偽らざる本音であろう)。その点において今回のBL版は、原作とは決定的に質を異にしているように思われる。BLである以上、性愛と官能は不可欠な要素であって、おそらくこの点で漫画家各氏は腐心されたに違いない。原作からあぶり出すか、あるいは、大きく逸脱することも厭わず筋を膨らませていくか。そこに腕の見せ所もあったことだろう。
 解説者としても、読者の求める「官能」にも応えなければということで、『無惨編』では、武士道に言及しつつ「男の色香」と「男同士の恋の激しさ」について考えてみた。解説の構想を膨らませるうえで梃子になったのが、ウォン・カーウァイ監督の映画である。まずは、「ブエノスアイレス」(1997年)。これぞまさしく男と男の恋の話であり、暴力的なまでに激しい想いと孤独の染みわたるフィルムだ。そして、「欲望の翼」(1990年)。ラストに登場するギャンブラー「爪を磨く男」の姿が、『葉隠』との関連においてどうしても必要となった。また、解説では直接的には言及していないけれども、「花様年華」(2000年)も、抑制と制約のもたらす官能の世界がおおいに参考になる。何と言っても男色は「言はねばこそあれ」の世界なのであるから、口には出さず想いを胸に秘める「花様年華」の世界観と通底するのである。この三本のフィルムに共通するのはトニー・レオンが出演しているということ。勝負の場に臨んで、爪を丹念に磨き、艶やかにめかしこむ男の色香を表現するには、何と言ってもトニーのような端正さがなければならない。

BLと古典
 今回の仕事を通じてBLに関心を深めつつあったので、関連ニュースにも敏感になった。2016年8月15日の「能とBL―「男×男」の友情と愛情―」というイベントが銀座BAR十誡で開かれるということで早速申し込んだところである(8月10日現在)。聖ヴァニラ学園(この名称も実に魅力的である)のHPには「第一部ではシテ(主人公)を務める能楽師の谷本健吾氏と能楽タイムズ編集部の山岸宏子さんによる『松虫』解説を、第二部では二人に加えてゲストに歴史学者の氏家幹人氏をお招きして能と武家社会に潜むホモセクシャルな構造を考証します」とある。 
 古典の中に、男と男の深い心の絆が描かれているということ自体は、研究者からすれば、さほど目新しいことではないだろう。しかし、そこに「BL」という人目を惹くキーワード(しかも、どことなく淫猥で危険な香りのするワード)を冠することで、実に魅力的な磁場が生まれてくる。このイベントを企画された方は、実に冴えている。古典ばなれ、文学ばなれ、いやいや人文学そのものの退潮までも危惧される昨今である。「BL」という新たな磁場に置かれることで、古典の世界に新たな光が差し、そこに新たな交流の場が生まれるのであれば、願ってもないことではないだろうか。というわけで〈BLで読む古典〉シリーズの到来を心待ちにしているこの頃である。

※初出2016年11月。原稿を一部修正した。